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【天正伊賀の乱】伊賀忍者の棟梁?織田信長に徹底抗戦した百地丹波の武勇伝【どうする家康】:2ページ目
柏原城の戦い(第二次天正伊賀の乱)
しかし、伊賀の栄華も長くは続きません。ついに天正9年(1581年)に信長が本気で攻めて来たのでした。
百地丹波はこの時、柏原城(三重県名張市)に駆けつけ、城主の瀧野吉政(たきの よしまさ。十郎)と共に立て籠もります。
……喰代村の百地丹波も當城にかけ籠る、其の侍の都合四百三十八人、雑兵合せて一千二百余人、総て一千六百余人、右の外妻子童等記たるに遑奈し、此の如く尓死武者多く楯籠り、互に義を励まして一戦の時刻を、今や遅しと待ちかけたり……
※『伊乱記』巻之七「柏原合戦の事」
【意訳】柏原城に籠もった侍(郷士)は438人、雑兵1,200余りを加えて総勢1,600余りとなちました。また彼らの妻子については記す暇もないほどです。死に物狂いの勇士らが祖国防衛の大義に燃えて、決戦の時を待ち構えるのでした。
寄手の大将は丹羽長秀(にわ ながひで)。大軍を擁して攻めかかりますが、堅牢な城はなかなか抜けず、城からの弓勢に多くの死傷者を出してしまいます。
……瀧野十郎、近地、中野、百地丹波、吹井大三郎等が放つ矢に寄手多く射伏せられたり……
※『伊乱記』巻之七「柏原合戦の事」
さらに伊賀者の習いで、忍術を心得た者が数十名ばかりおり、隙を衝いてしばしば夜襲を仕掛けました。
……只奈らぬ伊賀者の慣にて、忍の術を得たるもの数十人有りしが、城外所々の焼き篝の暗きを窺ひ、夜々幾度か忍び出でゝ、諸大将の陣営に夜討をかけて焼き立つる奈ど、種々の兵術を以て寄手を悩ま寿事多かりき……
※『伊乱記』巻之七「城兵智略寄手を驚かす事」
具体的に誰とは書いていないため、百地丹波がこの中にいたかはハッキリしません。いずれにしても、寄手が大いに悩まされたのは間違いなさそうです。
しかしこうした奮戦も虚しく糧食も底を尽き、10月28日に瀧野吉政が信雄に降伏。嫡男の瀧野亀の助(かめのすけ。当年13歳)を人質に出して城を明け渡したのでした。
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