長沼宗政に殺された畠山重忠の遺児、重慶。実は影武者だった説『系図纂要』より【鎌倉殿の13人】:2ページ目
『系図纂要』によると
かくして(少なくとも実朝には)惜しまれながら世を去った畠山重慶。しかし幕末の系図集『系図纂要』には、こんな記述がありました。
證性
僧 本名重慶 大夫阿闍梨
文永二年四ノ廿五入 七十七※『系図纂要 四十九 平氏 四』より
【意訳】證性(しょうせい)は僧侶で、その本名は重慶と言う。大夫阿闍梨(たいふ あじゃり)の位であった。
文永2年(1265年)4月25日に入滅(にゅうめつ。高僧が亡くなること)された。享年77歳。
……證性の本名は重慶。ある時点から本名を隠して證性となったことを意味しています。
単なる改名であれば、どちらも本名には違いないので、この記述は元の名前(重慶)を隠したと考えるのが自然です。
この記述が事実であれば、建暦3年(1213年)9月に殺されたのは畠山重慶本人ではなく影武者。世を忍ぶため名を證性と改め、その後半世紀以上にわたる長寿を保ったことになります。
文永と言えば元寇(文永の役)の直前、鎌倉殿は第7代・惟康親王(これやすしんのう)、執権も第7代・北条政村(まさむら)になっていました。
※政村は、義時と伊賀の方(のえ。演:菊池凛子)の間に出来た子で、奇しくも重忠が討たれた元久2年(1205年)6月22日に生まれています。
終わりに
かくして生き永らえた證性は證光(しょうこう)という子を授かり、やがて下野国塩谷荘に蓮生寺(れんしょうじ)を開いたとのこと。
※江戸時代の寛永4年(1627年)に福島県東白川郡棚倉町へ移転。なお證性自身を開基とする説や、證性が重慶ではなく異母兄の畠山重秀(しげひで。小二郎)とされる説もあります。
證光の代で子孫は途絶えているものの、『系図纂要』には重秀の家系が後世に存続。重忠の子孫が今もどこかに生きている(かも知れない)と思うと、胸が熱くなりますね!
※参考文献:
- 飯田忠彦『系図纂要』国立公文書館デジタルアーカイブ
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 7頼家と実朝』吉川弘文館、2009年11月
- 親鸞聖人関東ご旧跡ガイド編集委員会『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』本願寺出版社、2011年8月