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捕虜から徳川家康の侍女に、キリスト棄教を拒み流罪となった女性「ジュリアおたあ」の数奇な人生

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キリスト教のため、流罪となる

キリスト教に従事していたジュリアおたあに家康は、慶長17年(1612年)に発布された禁教令を背景に棄教を要求します。もちろん、ジュリアおたあは拒否。

このことと家康の側室になることを拒んだことが重なり、ジュリアおたあは伊豆諸島の伊豆大島に流罪となります。

家康は伊豆大島にジュリアおたあに棄教を迫る使者を送りますが、それでも拒否しました。そのため伊豆大島から新島に移り、最後は神津島(こうづしま)に移されました。

新島や神津島への移動も、ジュリアおたあが棄教を拒否したことが原因となっています。

ジュリアおたあのその後

ジュリアおたあは、フランシスコ・パチェコ神父が記した元和8年(1622年)の書簡にて、神父の援助で神津島から大坂へ移動。その後、長崎へ移ったとの記録が残っています。

長崎以後の記録が残っていないため、ジュリアおたあの最後は残念ながらわかりません。

また、神津島にある供養塔がジュリアおたあのお墓という説も出ています。そのため、神津島では毎年5月に、ジュリアおたあをしのぶ祭りであるジュリア祭が開催されています。

最後に

小西家の薬学に精通したり、徳川家康に侍女として召し抱えられたりと濃い人生を歩んだジュリアおたあ。ここまで偉人たちから重宝された背景から、彼女が才気あふれる人物だったことが容易に想像できます。

李氏朝鮮の貴族の娘という説が出てもおかしくはないですね。

参考:谷真介『ジュリア・おたあ』

 

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