【光る君へ】大和源氏の祖は殺人の上手!?藤原道長仕えた源頼親の生涯1:2ページ目
藤原南家に連なる母方の祖父・藤原致忠
頼親の生母は、藤原南家の出身である藤原致忠(ふじわらのむねただ)の娘とされています。
藤原氏の嫡流は、北家出身の兼家らでした。
とはいえ、南家の致忠は従四位下・右京大夫を務め、村上天皇から一条天皇まで仕え、朝廷に一定の影響力を持っていた人物です。
彼の家系は政治的に大きな力を持つことはありませんでしたが、頼親にとって、藤原家の血筋が政治的な支えとなったのは間違いありません。
しかし高貴な血筋とは裏腹に、致忠自身は、波乱に満ちた晩年を過ごしました。永延2(988)年、息子・保輔が盗賊行為に関与。致忠も共に検非違使によって拘禁されるという事件が起こります。
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これによって、致忠は佐渡国へ流罪となり、政治的に没落することになります。頼親の母がこのような状況を目の当たりにしていたことは、彼の人生にも少なからぬ影響を与えたでしょう。
このように、頼親は父方・母方ともに波乱万丈な家庭環境の中で育ちました。父・満仲の築いた強固な武士団と、母方の藤原家とのつながりが、頼親の武士としての人生を形作っていくことになります。
盗賊追捕と「武勇人」としての台頭
頼親は若い時には検非違使として出仕。左兵衛尉や左衞門尉として盗賊退治に関わっていきました。
正暦3(994)年、頼親の叔父の満政や弟の頼信、平維将らと共に、京やその周辺で盗賊の追捕を行った記録が残っています。この時期の頼親は、すでに「武勇人」としてその名を知られ注目されるようになりました。
盗賊退治を皮切りに、頼親は出世街道を歩んでいきます。
やがて頼親は淡路(島)守を拝命。受領国司として現地に赴任して統治にあたりました。これは現代でいえば県知事クラスになると考えられます。
その後も信濃守(長野県知事)や周防守(山口県知事)などを歴任。政治的な地盤を築いていきました。
転機となったのは、大和守(奈良県知事)への就任です。当時の大和国は、仏教勢力が強い地域でした。
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