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パンとも深い関わりが!幕末期の忘れてはならないヒーロー「江川英龍」の功績

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江川英龍は過労死してしまった!?

英龍は次男でしたが、長男が亡くなってしまったため、父の死後、代官を継ぎました。彼が代官になったときは、欧米諸国が次々と日本へやってきたり、天保の飢饉が起きるなど、国内外で問題が山積みになっていました。

そんな状況でまず英龍が行ったのが、農地の改良。自分の足で実際に農地を見て回り、解決策を考えていきました。また、自分自身も質素倹約につとめました。ちなみに、民衆からは「世直し江川大明神」と称賛されました。

対外関係については、英龍は海防への意識が特に高かったといわれています。砲術の第一人者であった長崎の高島秋帆(しゅうはん)の演習を見学した英龍は、幕府から命じられて高島のもとで砲術を学びます。

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そして、「韮山塾」を開き、他の人へ伝えていきました。ちなみに、「韮山塾」では佐久間象山、橋本左内、桂小五郎などが学んでいます。

その他、彼の大きな功績が台場築造と韮山反射炉建設です。幕府に命じられ、台場(砲台を据えた人工島)を12基設計します。また、質の良い鉄製品を作るために、韮山に反射炉の建設に着手。

しかし、過労がたたって、反射炉の完成を見ることなく53歳で突然亡くなってしまいます。

「パン祖」とも呼ばれる江川英龍

英龍は意外なところでも名を残しています。それは、1842年に兵糧のパンを初めて作ったことから「パン祖」と呼ばれているのです。ちなみに、現在では4月12日がパンの記念日 ・パンの日となっているのですが、これは英龍が初めてパンを焼いた日に由来します。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

 

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