長崎の町役人から江戸幕府に仕える幕臣へ上り詰めた男!幕末の砲術家・高島秋帆の生涯
外国船の来航によって、江戸時代の泰平は終わり動乱の幕末が始まります。新時代を生き抜くため、日本全体が大きな変革を求められました。
時代の最先端を走り、長崎から日本の開化政策を主導した男がいました。町年寄で砲術家でもある高島秋帆(たかしま しゅうはん)です。
秋帆は優れた見識や手腕を幕府や全国に認められますが、無実の罪によって投獄。それからは長い戦いが続きました。しかし出獄後、彼は幕府のブレーンとして取り立てられます。
大河ドラマ『青天を衝け』でも描かれた、高島秋帆の生涯を見ていきましょう。
高島秋帆、長崎の町年寄の家に生まれる
寛政10(1798)年、高島秋帆は長崎町年寄・高島四郎兵衛茂起の三男として生まれました。諱を茂敦,通称は四郎大夫と名乗りました。「秋帆」は号にあたります。
高島家は近江国高島郡高島荘を発祥とする一族です。同家は戦国時代に長崎に移住して以降、長崎の町年寄を代々世襲してきた家柄でした。
町年寄は、町奉行の下で町政を司る立場の役人でした。職務においては、奉行の御触や指令の伝達を行い、消防や交通など町政全般を取り仕切っています。
特に高島家は長崎の脇荷貿易(個人的貿易)で潤い、十万石の大名に匹敵するほどの利益をあげていました。長崎の大村町に、広さ1024坪の邸宅を構えていたといいます。
平穏な時代であれば、安穏な暮らしが約束されていたはずでした。しかし18世紀末になると、国外の情勢は大きく変化していきます。日本近海には、次々とロシア船やイギリス船が出没するようになっていました。自然、国防に対する意識も高まってきます。
当時の日本は鎖国体制にあり、長崎は海外との唯一の玄関口です。同地では特に外国への危機意識が強くありました。
秋帆の父・四郎兵衛は,長崎港の出島の台場(砲台)を任されていました。四郎兵衛は荻野流砲術家・坂本孫之進に学んで砲術を極め、砲術師範となっています。
秋帆も早くから父・四郎兵衛から荻野流砲術を学び、自身も皆伝を受けるほどの腕前でした。