長崎の町役人から江戸幕府に仕える幕臣へ上り詰めた男!幕末の砲術家・高島秋帆の生涯:2ページ目
高島秋帆、長崎でオランダ仕込みの砲術家となる
文化11(1814)年、秋帆は高島家の家督を相続。わずか十七歳の若さでした。
その後、町年寄見習となって台場を任され、後には長崎会所調役頭取となっています。秋帆は町年寄や鉄砲方を勤める一方で、大きな危機感を抱いていました。
当時の日本は、鎖国によって欧州文化の輸入が途絶えた状態です。当然、日本の砲術に関する進化も止まり、西洋砲術に大きな遅れを取っていました。
このときの日本の砲術は、軽砲に限定されています。武装した外国の軍艦には、とても歯が立たない状態です。
秋帆は、蘭学など西洋の砲術の知識を学ぶことを決意。長崎に在留していたオランダの砲兵士官の下で学びます。四年の間にオランダ語をはじめ、西洋の兵器学や戦術などを身につけています。
文化13(1816)年には,儒学者・藤沢東畡(とうがい)が長崎に遊学し、秋帆の自宅に寄宿。そこから三年間、秋帆は東畡の教えを受けています。
秋帆は蘭学だけでなく、儒学においても一流の教育を受けたことになります。多彩な学問の知識を貪欲に取り入れることで、複合的な視点が培う意味があったのかも知れません。
しかしまだ、秋帆の向学心を満たしたわけではありません。私費で砲術に関する文献や大砲、砲弾や小銃などの武器も大量に輸入しています。
天保3(1832)年〜天保10(1840)年の八年間に、前装式野砲6門、前装式臼砲4門、前装式榴弾砲3門、小銃350挺を購入しています。これらの大砲は全て滑空砲(ライフリングが施されていない大砲)で、砲弾は鉄円弾でした。
天保5(1834)年、秋帆は高島流砲術を完成させます。同時に全国から門人を集め、砲術を教授していきました。同年には、佐賀の武雄領主・鍋島茂義が入門。翌天保6(1835)年には、茂義に免許皆伝を与えると同時に、モルチール砲を献上しています。
天保11(1840)年には、門人の数は300人を超えました。門人の中には、伊豆国韮山代官・江川太郎左衛門(坦庵)や幕臣・下曾根信敦が名前を連ねています。
秋帆は砲術家として、日本でも有数の指導者であったことがわかります。
やがて長崎に衝撃的な報告が長崎にもたらされます。清国がイギリスを相手としたアヘン戦争(1840〜1842年)で敗北したのです。
これにより,西洋諸国が日本などの東アジアに進出する可能性が高まっていました。
秋帆は「オランダ風説書」を通して、清国の敗因を分析。その結果、武器の相違と優劣こそが清英両国の勝敗を決定づけたとの認識を持つに至ります。
天保11(1841)年、秋帆は当時の長崎奉行,田口加賀守を通して幕府に上書(天保上書)を提出します。これには「洋砲採用の建議」が盛り込まれていました。大砲の近代化と兵制改革を訴えた内容です。
高島秋帆、長崎から江戸に出て公開軍事演習を行う
天保12(1842)年には,実際に行動に起こしています。
武蔵国徳丸ヶ原において,日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の訓練を公開演習形式で行いました。幕府の命によるものです。
訓練は、砲兵・騎兵、そして歩兵による銃陣(銃で武装した兵隊からなる陣)を行っています。これは予行演習、本演習と二日間に続いて実施されました。
秋帆は装束に筒袖に裁着袴(たっつけばかま)、頭には黒塗円錐形の銃陣笠を着用して臨んでいます。検分した幕府の役人は「異様之冠物」と称しています。
この演習には、秋帆とその門人たち総勢百人が参加しています。
老中・水野忠邦らが検分者として見学し、多数の大名関係者や蘭学者、砲術家や江戸の住民らが訪れています。人数は一千人を数えたと言われています。
見学者の中には,まだ若い時代の勝海舟の姿もありました。
公開演習は不発が一つもなく,無事成功に終わります。幕府は秋帆が所有する大砲を買い上げ,演習の功績として銀500枚を与えています。
昭和44(1969)年には,この訓練地は高島秋帆にちなみ「高島平」と名付けられました。
演習の後,秋帆は幕府からは砲術家として信任を受けることとなります。老中・阿部正弘は「火技中興洋兵開基」と秋帆を高く称賛しました。この後、秋帆は幕臣にも高島流砲術を教授する立場となります。
稀代の砲術家・高島秋帆、長崎会所の件で捕らえられる
砲術家として、秋帆の人生は順風満帆に見えました。しかしあるときを境に、運命は暗転してしまいます。
天保13(1842)年,秋帆は長崎奉行・伊沢政義によって突如捕縛されます。そのまま投獄され、江戸に護送されていきました。結果、高島家はお家断絶となってしまいます。
捕縛理由は,長崎会所の杜撰な運営というものでした。秋帆が会所調役頭取であったため,責任を問われたという形です。
しかしこれは、幕府の一部によって仕組まれた事件だったようです。
当時の幕府目付・鳥居耀蔵(伊沢政義の舅)は,蘭学者を敵視する人物でした。耀蔵は洋式軍備に明るく、豊富な資金力を持つ秋帆を危険視します。そこで耀蔵は伊沢と組み,秋帆の逮捕に踏み切ったといいます。
耀蔵は秋帆に「密貿易」と「謀反」という罪を着せ,断罪しようと目論みました。小伝馬町の牢屋敷では,耀蔵が直々に秋帆の取り調べを行うという徹底ぶりを見せています。
さらに耀蔵の背後には,老中・水野忠邦がいたという説がありました。当時水野は天保の改革を遂行していました。水野は,長崎会所の経理の乱脈が銅座における精銅生産に影響することを恐れたともされます。
秋帆は死罪こそ免れましたが,さらに身柄を武蔵国の岡部藩(現在の埼玉県深谷市)に移されました。そのまま同地において幽閉されますが,諸藩は秘密裏に秋帆と接触。洋式兵学の教授が行われていました。
秋帆は幽閉の身でしたが、完全な軟禁状態にあったわけではないようです。秋帆は岡部藩では客分扱いとされ、藩士に兵学を教授したと伝えられています。
さらにこの岡部藩で、新たな出会いもあったようです。
岡部藩領には、血洗島という村があります。同地は、のちに近代日本経済の父と言われる渋沢栄一が生まれ育った土地でした。
秋帆は岡部藩に幽閉された際、渋沢と面識を持った可能性があります。大正10(1921)年になりますが、高島平に「高島秋帆先生紀功碑」が建てられました。その際、渋沢も同企画に賛同した上で寄付をしています。
日本の軍備と経済の基礎をつくった二人は、岡部藩でどのように出会い何を語り合ったのでしょうか。
その一方で、秋帆の門人である江川太郎左衛門らは,幕府に秋帆赦免を願い続けていました。
3ページ目 出獄後の高島秋帆、長崎の町年寄から砲術を教える幕臣となる
出獄後の高島秋帆、長崎の町年寄から砲術を教える幕臣となる
嘉永6(1853)年、浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航。幕府は開国政策に舵を切ることになります。
その最前線に立っていたのが、当時老中首座となっていた阿部正弘でした。阿部はかねてから秋帆の砲術家としての知見を見込んでいた人物です。
阿部は、本土を防衛するための砲台建設が急務と考えます。そこで専門家である秋帆に赦免を言い渡しました。
ほどなく秋帆は出獄。11年ぶりに幽閉を解かれて自由の身となりました。その上で海防掛御用取扱の役職に任命され、江川太郎左衛門の手付(下役人)の地位を与えられています。かつては罪人扱いされた秋帆が、今度は幕臣に取り立てられました。
この段階では,攘夷論が根強い風潮にあります。開国政策は忌み嫌われ,批判や迫害の対象とさえなっていました。
しかし秋帆は臆しません。これまでの鎖国政策を誤りだと批判。さらに開国と通商行うべきだと、幕府に『嘉永上書』で上申します。
幕府は本格的な西洋式軍隊を作り始めていました。そこで西洋兵学の実務教育が重要視されていきます。
秋帆はさらに幕府講武所(武芸訓練機関)において、砲術師範に任命。講武所教授方頭取,講武所奉行支配などを勤めるに至ります。砲術家として、公的な立場で後進の指導と育成に力を入れていくことになりました。
砲術の重要性は、既に全国の諸藩が認識するところです。当時の幕府は80門の大砲を入手。嘉永7(1854)年の段階では、全国の大名家221家に合計1374門の大砲があったと伝わります。
元治元(1864)年,秋帆は兵学の教練書である『歩操新式』を編纂。すでにこの頃の秋帆は、日本における兵制改革の先駆けとも言える存在でした。
この頃,妻子を江戸に呼んで長屋住まいをしていたようです。十万石の大名に匹敵すると言われた町年寄の身分には戻っていません。あくまで質素な暮らしを続けていました。
しかし幸せな時間は長くは続かなかったようです。晩年の秋帆は、妻子や孫に先立たれています。
慶応2(1865)年,高島秋帆は世を去りました。享年六十九。墓は大円寺にあります。
参考文献
- 「高島秋帆」 埼玉県深谷市HP
- 「【西洋砲術の先駆者:高島秋帆】日本に洋式砲術を導入した男の生涯と逸話」歴人マガジンHP
- 「高島秋帆と武雄の砲術」 武雄市HP
- 坂本保富 「武州徳丸原操練に参加した高島秋帆門人ー既知史料の吟味と新史料の紹介による比較検討ー」
- 「高島秋帆」 関西大学HP
- 水野大樹 『図解 火砲』 新紀元社 2013年
- 幕末研究会 『幕末維新人物事典』 新紀元社 2004年