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「鎌倉殿の13人」繰り返される挑発に爆発寸前!北条義時・和田義盛の開戦前夜…第40回放送「罠と罠」予習【下】

「鎌倉殿の13人」繰り返される挑発に爆発寸前!北条義時・和田義盛の開戦前夜…第40回放送「罠と罠」予習【下】

和田一族と鎌倉殿の板挟みになり、出家した和田朝盛

相州被拝領胤長荏柄前屋地。則分給于行親。忠家之間。追出前給人。和田左衛門尉義盛代官久野谷弥次郎各所卜居也。義盛雖含欝陶。論勝劣。已如虎鼠。仍再不能申子細云々。先日相率一類。參訴胤長事之時。敢無恩許沙汰。剩面縛其身。渡一族之眼前。被下判官。稱失列參之眉目。自彼日悉止出仕畢。其後。義盛給件屋地。聊欲慰怨念之處。不事問被替。逆心弥不止而起云々。

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)4月2日条

「何、小四郎のヤツが我が代官を追い出し、平太の館を奪い取っただと!」

鎌倉殿の命令を意のままに操る義時を前に、義盛は歯噛みするばかりです。

「どこまでもふざけやがって……もういい、我ら一族を軽んじるなら、もはや誰も出仕に及ばぬ!」

怒り心頭の義盛は、一族にボイコットを命じました。

「「「ははあ……」」」

そんな中、和田一族に和田朝盛(わだ とももり。三郎)という者がおりました。義盛の長男・和田常盛(つねもり)の嫡男です。

先代・頼家の代から側近として仕えており、和歌の才能をもって実朝からも寵愛を受けています。長老・義盛の命に背くわけにはいきませんが、主君・実朝に逆らうのも本意ではありません。

このままだと、遠からず和田と北条(が大義名分に担いでいる鎌倉殿)は衝突する。どちらにも弓を引けない朝盛は、4月15日に御所へ潜入。こっそり実朝に面会しました。

「ご無沙汰しております」

「おぉ、三郎か……会いたかったぞ」

朝盛が別れを告げにきたことを察した実朝は、これまでの忠功に報いるため数々の地頭職を授ける下文(ここでは辞令書)を書いて授けます。

出家遁世を果たせばそんなもの無駄になるのですが、それでも何か自分に与えられるものはないかと考えたのでしょう。あるいは「地頭職を授けたのだから、俗世に留まって欲しい」というメッセージが含まれていたのかも知れません。

「ありがたき仕合せ……然らば御免」

果たして御所を退出した朝盛は館に帰ることなく出家。敬愛する実朝から一文字とって実阿(じつあ。実阿弥)と改名、そのまま京都へと向かったのでした。

朝盛出家事。郎從等走歸本所。告父祖等。此時乍驚。自閨中求出一通書状。披覽之處。書載云。叛逆之企。於今者定難被默止歟。雖然。順一族不可奉射主君。又候御方不可敵于父祖。不如入無爲。免自他苦患云々。義盛聞此事。太忿怒。已雖爲法躰。可追返之由。示付四郎左衛門尉義直。是朝盛者殊精兵也。依時軍勢之棟梁。義盛強惜之云々。仍義直揚鞭云々。

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)4月16日条

「何、三郎が鎌倉を出て行っただと?」

朝盛の出家を聞かされた義盛は、ただちに義直を派遣して連れ戻させます。朝盛は弓の名手であり、北条との衝突が避けられない現状においては欠くべからざる戦力です。

義直相具朝盛入道。自駿河國手越驛馳歸。仍義盛遂對面。暫散欝憤云々。又乍着黒衣。參幕府。依有恩喚也。

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)4月18日条

果たして朝盛は義直に連れ戻され、4月18日に鎌倉へ帰りました。

「……面目次第もございませぬ」

「申すでない」

僧侶の黒衣に身を包んだ朝盛と再会し、実朝は遠からず戦わねばならぬ身の上を深く憂えたことでしょう。

4ページ目 完全に断たれた和平の希望

 

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