なぜ歯向かったのにお咎めなし?幕末、戊辰戦争で戦った旧幕派の藩主たちがほとんど処罰されなかった理由:2ページ目
「微罪」で済んだ藩主たち
例えば、当時の仙台藩主だった伊達慶邦は謹慎処分で、そして米沢藩主の上杉斉憲は隠居で済まされています。
また、幕末期の会津藩の中心的存在でもあった松平容保も、最初は終身謹慎と封土没収となりましたが、1869年には再興を許されて華族となり、なんと下北半島の斗南藩3万石を与えられました。
これはほんの一例で、総じて、会津戦争で新政府軍に楯突いた藩で藩主が死罪となったケースは存在していません。彼らは皆、微罪で済んだのです。これは何故でしょうか。
実は、もともと新政府軍は藩主を処刑することは考えていなかったのです。
戦争終結後、新政府軍は明治天皇の詔書に基づいて東北の各藩を処罰したわけですが、この詔書の中でも「容保の死一等を宥して首謀の者を誅し…」と記されていました。
新政府軍は、東北諸藩が新政府軍に楯突いたのは各藩の藩主の側近たちによる謀だと考えていたのです。奥羽越列藩同盟の首謀者は、同盟を結んだ諸藩の藩主ではない、ということですね。
こうしたことから、藩主は処罰されず、その側近たちが重罰に処されたのです。