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神奈川県平塚市の語源は?この地で薨去したやんごとなき姫君のエピソード:2ページ目
石碑の日付に生じた疑問
そして現代、この辺りは「平塚の塚緑地」として整備され、塚は「平塚の碑」として玉垣に囲われた松の木の根元に建っています。ちなみに、伝承によるとこの松は、眞砂子姫が亡くなった時から三代目なのだとか。
傍らには大小の石碑があり、平塚の塚について由来を紹介しています。
【碑文】桓武天皇孫高見王之女政子下東國天安元年二月二十五日薨因葬墳此塚也
【意訳】桓武天皇の孫で高見王の娘である政子(原文ママ)は東国へ下る途中、天安元857年2月25日に薨去。葬られたのがこの塚である。
これだけ見ると「へー、そうなんだ」で終わりそうですが、ちょっと調べると疑問が生じるので、その辺りも少し掘り下げてみようと思います。
眞砂子姫の兄・平高望が上総介(現:千葉県中部の国司)を拝命し、現地に赴任したのが昌泰元898年。一方で、眞砂子姫が東国に下ったのは天安元857年……。
「アンタ(眞砂子)、何しに行ったん?」
兄がまだ上総介に任じられない内から41年もフライング。身内が誰もいない(筈の)東国に、姫君がわざわざ一人で訪ねていく理由とは何でしょうか。
(※現代なら「上京」という分かりやすい理由がありますが、当時は東国と言えば蝦夷と呼ばれた野蛮人の蟠踞する未開の地と思われていましたから、それこそ婦女子はもちろん、男性であっても旅立ちには相応の覚悟が求められたようです)
……まぁ、地元の伝承がちょっと勘違いだったのでしょう(他の元号である可能性も調べてみたのですが、天安と勘違いしそうな元号はどれも時期が大きくズレていて、ちょっと非現実的でした)。
実際のところは(エピソードが史実として)兄・平高望が上総介として東国に赴任し、経営が軌道に乗りそうだったので妹・眞砂子も招いたものの、道中で病死してしまった、と言ったところなのでしょう。
終わりに
その後、高望は延喜二902年に西海道の国司として大宰府に転勤、そのまま現地で没します(延喜十一911年)が、その息子たちは東国に根を下ろし、坂東平氏の祖として活躍するのでした。
そんな兄や甥っ子、そして子孫たちの活躍を見ることなく相模国に散った眞砂子姫のエピソードは、地元の皆さんに愛されながら今日に伝わっています。
※参考文献:
蘆田伊人 編『新編相模国風土記稿』雄山閣、1998年4月
平塚市 編『平塚市史』平塚市、1985年4月
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