源頼家に妻を奪われたが…泰時の盟友・安達景盛(新名基浩)が剛腕政治家に成長するまで【鎌倉殿の13人】:3ページ目
剛腕を発揮して三浦一族を滅ぼす
やがて嘉禄元年(1225年)に政子が亡くなると高野山に籠もり、永らく鎌倉幕政を遠く見守っていた景盛。しかし三浦一族の専横に耐えかねた宝治元年(1247年)4月4日、沈黙を破って鎌倉へと舞い戻ってきたのです。
今日。秋田城介入道覺地〔俗名景盛。藤九郎盛長息〕自高野下着。在甘繩本家云云。
※『吾妻鏡』宝治元年(1247年)4月4日条
安達一族は亡き頼朝の側近ではありましたが、対して三浦一族はそれ以前から代々源家に仕え続けた名門。安達一族を成り上がり者として軽侮していたのでした。
今や鎌倉幕政において、北条&安達と三浦が2トップ。先の宮騒動(寛元4・1246年)によって政治的劣勢となった三浦一族を追い落とす、千載一遇のチャンスです。
だと言うのに、嫡男の安達義景(よしかげ)や嫡孫の安達泰盛(やすもり)、そして執権にして外孫の北条時頼(兄・経時が亡くなって執権を継いだばかり)は何もしません。
(ちょっと言いすぎかも知れませんが、少なくとも景盛にとっては焦れったかったのでしょう)
日來高野入道覺地連々參左親衛御第。今日殊長居。内々有被仰合事等云云。又對于子息秋田城介義景殊加諷詞。令突鼻孫子九郎泰盛云云。是三浦一黨當時秀于武門。傍若無人也。漸及澆季者。吾等子孫定不足對揚之儀歟。尤可廻思慮之處。云義景。云泰盛。緩怠禀性。無武備之條。奇怪云云。
※『吾妻鏡』宝治元年(1247年)4月11日条
【意訳】最近、高野入道がちょくちょく時頼の館へやって来る。今日は特に長居して内々の打ち合わせをしていった。
また息子の義景をボロッカスに批判し、孫の泰盛もケチョンケチョンに貶されたとか。
曰く「三浦は武力にモノを言わせて横暴の限りを尽くしておる。油断しとると今に奴らの軍門に屈することになる。だと言うのに、お前らと来たらどんだけ怠け者なのか、武力を養うどころか戦支度の一つも出来とらんとはどういうことじゃ!」とのこと。
とまぁ、大層なお怒りよう……もういい、お前らには任せておけぬ!とばかりに景盛は三浦一族に対して挑発の限りを尽くして合戦に持ち込もうとするのでした。
一方の三浦一族でも棟梁の三浦泰村(みうら やすむら。三浦義村の次男)は北条&安達一族との争いは望んでいません。しかし弟の三浦光村(みつむら)・三浦家村(いえむら)たちは宮騒動で生じた劣勢を挽回するべく、景盛の挑発に暴発寸前。
続々と両軍に馳せ参じる武士たち。そしてついに6月5日、北条と三浦の武力衝突が勃発してしまいました。
「兄者、事ここに至ってまだ躊躇われるか!」
棟梁の泰村が最後まで和平の意思を示した……と言うより、ここまで来ると肚を括れなかったために三浦方は惨敗。ついには一族500余名が自刃して果てたのです。
ここに源家累代の御家人であった三浦一族は滅亡。もはや抗する者のなくなった北条家(得宗家)による専制体制が確立されたのでした。
終わりに
かくして、北条氏の盟友として鎌倉幕政に不動の地位を築いた景盛はすっかり安堵したのか、宝治2年(1248年)5月18日に高野山で亡くなりました。
初登場時こそ政子に助けられていたものの、その恩義から忠勤に励み、北条の守護者に成長した安達景盛。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも承久の乱くらいまでは観られそうなので、これからも新名基浩さんの好演に注目ですね!
※参考文献:
- 高橋慎一朗『人物叢書 北条時頼』吉川弘文館、2013年7月
- 北条氏研究会 編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社、2001年6月
- 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
- 細川重男『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』朝日新書、2022年8月