こんな人生ツラすぎる…平清盛に捨てられ、娘も奪われた巫女・厳島内侍が土肥実平との結婚に至るまで:3ページ目
三度目の正直?土肥実平に迎えられ、余生を送る
さて、盛俊の妻となった厳島内侍は20年ほど連れ添いました。
彼女が生んだのかは定かならぬものの、家には盛俊の子である平盛綱(もりつな。盛俊の弟とする説も)や平盛嗣(もりつぐ)もおり、団欒に心慰められるひとときもあったことでしょう。
やがて夫の盛俊が寿永3年(1184年)2月7日、一ノ谷の合戦で討死。『源平盛衰記』によると平家の滅亡後に鎌倉の御家人である土肥実平(どひ さねひら)の妾とされます。
実平は源頼朝(みなもとの よりとも)の流人時代から親交があり、その挙兵にいち早く呼応した最古参の一人。
質実剛健を旨とする実平は、鎌倉政権が興隆する中でも質素な暮らしぶりを変えず、頼朝から愛されていたと言います。
「不束者ではございますが……」
これまで権力の絶頂にあった清盛に始まり、その一門として権勢を振るった盛俊に嫁いできて、三番目の夫となった実平は随分と見劣りするかも知れません。
しかし盛者必衰の移ろいを目の当たりにする中で、ずっと変わらない素朴な実平の態度にホッとしたのではないでしょうか。
厳島内侍の没年は不詳ですが、実平の(恐らくは、不器用な)愛情を受けながら安らかな余生を送ったことを願うばかりです。
※参考文献:
- 角田文衛『平家後抄 落日後の平家 上』講談社学術文庫、2000年6月