まるで白亜のピラミッドのように復元!斉明天皇の真陵・牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)ってどんな古墳?【後編】:3ページ目
まとめにかえて ~現地を訪れてみて思ったこと~
宮内庁の良識的見解に期待したい
現地を訪れ、復元された牽牛子塚古墳と越塚御門古墳を眺めていると、この地が斉明女帝・間人皇女・大田皇女という三代にわたる貴婦人が永遠の眠りにつく地であることが実感されます。
ただそうしたなかで、とても疑問に思うことがあります。それは、考古学・文献史学から被葬者が100%に近い確率で特定されたのにもかかわらず、宮内庁がかたくなに斉明天皇陵=牽牛子塚古墳を否定することです。
その理由を宮内庁は「陵誌銘等の資料が発見されていない」「墳丘や石室の形状では判断できない」などと述べ、現斉明天皇陵(車木ケンノウ古墳)が正しいという見解を変えず、その治定は見直さないとしています。どんなに学術的な裏付けがあっても天皇陵の治定変えはしない。これでは、いつまでたっても古代史の真実は明らかにならないでしょう。
実は2010年に牽牛子塚が八角形墳と判明し、越塚御門が発見された時、発掘に当たった明日香村教育委員会は宮内庁に遠慮をしたのでしょうか、両古墳の被葬者をぼかした報道をしていました。
しかし、牽牛子塚古墳が斉明天皇の真陵であるとする説が大勢を占めるようになると、「被葬者については古墳の立地や歯牙等から斉明天皇と間人皇女の合葬墓と考える説が有力」という言い方に変化してきています。
おそらく今後も変わることはないのでしょうか、牽牛子塚古墳のみならず、学術的に明らかになったことに対して、宮内庁の良識的な見解に期待したいと思います。
時間に余裕があれば訪ねてみたい古墳と史跡
牽牛子塚古墳・越塚御門古墳の見学後、時間に余裕があれば近隣の終末期古墳、特に以下の古墳および史跡を訪ねてみることをおすすめします。
●益田岩船…山の中にポツンと置かれた東西約11m、南北約8m、高さ約4.7mの花崗岩の巨石。江戸時代より様々な説が唱えられてきたが、現在では墳墓説が有力。上部には中央を仕切られた一辺約1.6m、深さ約1.2mの穴が空けられており、牽牛子塚古墳の横口式石槨として造られたものの、建造途中で亀裂ができたため放棄されたという説があります。
●小谷古墳…岩屋山古墳と並び、斉明天皇陵の候補とされる古墳。墳形は30m前後で方墳、あるいは円墳であったと推測されます。内部には、約8m巨石を用いた両袖式横穴式石室があり、その規模は全長約11.6m、玄室長約5m、玄室幅約2.8m、玄室高約2.7mをはかります。岩屋山古墳と同じ形の石室で、7世紀中頃に編年され、斉明天皇の崩御の時期と一致します。
●中尾山古墳…対辺長約30mの三段築成の八角形墳。凝灰岩と花崗岩の切石で造られた横口式石槨には、火葬にふされた被葬者の遺骨を入れた骨蔵器が納められていたと推測されます。被葬者は天武・持統天皇の孫で第42代文武天皇と考えられています。
●野口王墓古墳(天武・持統天皇合葬陵)…大化の改新を成し遂げた、第40代天武天皇・第41代持統天皇の御陵。対角辺の長さ約40m、全体の高さは約7.7mを測る五段築成の八角形墳。盗掘を受けた際の記録書から、埋葬施設は横口式石槨とみられ、天武帝の遺骸を納めた夾紵棺や持統女帝の遺骨を入れた骨蔵器の存在が伺われます。
●束明神古墳…対角辺の長さ約30mの八角形墳で、埋葬主体部は凝灰岩切石で構築された横口式石槨。出土品と歯牙の理化学的分析・文献・伝承などから、被葬者は、天武・持統天皇の子で皇太子であった草壁皇子の墳墓である可能性が高いとされます。
いかがでしたでしょうか。発掘調査に基づき忠実に復元された牽牛子塚古墳と越塚御門古墳。終末期古墳の真の姿を知るうえでも大変価値のある古墳です。ぜひ訪れることをおすすめします。