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日本史の重要キーワード「朝廷」って何?いつ廃止されたの?武家政権との関係史を紐解く

日本史の重要キーワード「朝廷」って何?いつ廃止されたの?武家政権との関係史を紐解く:2ページ目

武家政権との対立、南北朝時代、そして大政奉還

しかし清盛の専横は、公家や他の武家の反発を招くようになりました。そして、朝廷で起こった政権闘争がきっかけで平氏と源氏の戦いが起こり、勝利を収めた源氏方のリーダー・源頼朝が、朝廷とは別の政府として日本初の武家政権・鎌倉幕府を樹立します。

「幕府」の定義ですが、とりあえずここでは、武家のトップである征夷大将軍を中心に、武士が政治を取りしきる仕組みや、将軍の居場所のこととしておきます(幕府という言葉も定義や用法が曖昧に過ぎ、そのうち正式な学術用語としては使われなくなるんじゃないかという気がします)。

さて、朝廷は鎌倉幕府を許しません。朝廷に仇なす「朝敵」と見なして、政権を奪還するべく戦いますが敗北し、逆に力を失います。

ここで大変ユニークな出来事が起き、日本は世界的にも珍しい統治システムを誕生させることになります。権力争いに敗れ、政権を奪われた「朝廷」は滅ぼされることはなく、そのトップである「天皇」の地位もそのままに残されたのです。

それくらい、天皇の権威というものが絶対的だったのか、それとも武士たちは、年号の制定や官位の授与などという仕事は面倒臭いから朝廷に任せておこうと考えたのか、そこは分かりません。

とにかく、なぜか武家政権は、朝廷や天皇からそうした役割まで奪おうとはしませんでした。ここに朝廷と幕府の二重の統治システムが誕生し、その後も幕府は朝廷を重んじ、朝廷もまた、幕府の力を借りながら維持されていくことになります。

鎌倉に幕府が開かれてから、江戸幕府が倒れるまで政治の実権は武家の手中にあり、天皇が政権を握るチャンスはほとんどありませんでした。

例外は、第96代の後醍醐天皇が1333(元弘3)年に鎌倉幕府を倒して政権を取り戻した時です。後醍醐天皇は倒幕後、有名な「建武の新政」と呼ばれる天皇と公家を中心とした政治を始めようとしましたが、うまくいかずに武士の反発を招きました。

そして1335(建武2)年に足利尊氏が反乱を起こし、翌年に京で新しい天皇を即位させると、自分は征夷大将軍の地位を手に入れます。これが、日本史上唯一「朝廷」が2つ存在した南北朝時代の始まりでした。

南北朝時代が終わったのは、室町幕府の3代将軍・足利義満の時です。これ以降、武家政権は室町幕府から江戸幕府へと引き継がれ、最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還を行うまで続きました。

3ページ目 「朝廷」は明治維新で廃止された

 

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