幕末の志士たちも惚れた!強者・楠木正成のアツ過ぎる一生[最終章]
ここまでは、鎌倉末期から南北朝時代を生きた人物としての楠木正成を紹介しました。これまでの紹介記事はこちら。今回は、正成の死後にまつわる逸話を紹介してシリーズを終わりたいと思います。
江戸時代で人気急上昇した正成、黄門様も大ファンだった!
足利尊氏との戦いで正成が死んで正行が継いだ後も、楠木家は南朝に仕え続けますが、北朝が正統と見做されるようになると、彼は朝敵(朝廷の敵)扱いを受けます。しかし、正成の末裔を称した戦国武将・楠木正虎(まさとら)が天皇に嘆願して汚名を返上したのを始め、尊氏にも劣らず民衆思いだったことから、庶民にも正成人気は広まっていきました。そう、アイドル化が始まったのです。
江戸時代以降は『三国志演義』の流行から、悲劇の忠臣で不世出の軍師でもある諸葛孔明と重ね合わせられ、人気は更に高まりました(日本の武士と三国志をコラボさせる所は平成そっくりですね)。また、由井正雪などの武士には正成が祖となった楠木流の兵法が広く学ばれます。
また、足利と同じ源氏の血を引く徳川氏も正成には好意的であり、水戸黄門こと徳川光圀は寂れていた正成の墓に「嗚呼忠臣楠子之墓」と彫り込んだ墓碑を建立させていました。そのお墓は、今も湊川神社境内にあります。その光圀が着手した“大日本史”などで朝廷・皇室の権威を重視する学問で南朝が正統と見做されたことが、幕末における正成を崇敬する姿勢に代わっていくのです。
2ページ目 動乱の志士を支えた名将、近代化以降には陰りを見る?