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関ヶ原の戦い後、敗れた西軍にもかかわらず領地の加増を受けた2人の大名は誰?

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池田輝政に救われた山崎家盛

次に紹介する人物は、山崎家盛(やまざき-いえもり)です。

家盛の父・山崎片家は、六角や織田、明智と転々とした人物で、天正10年(1582)の山﨑の戦いで明智光秀が討たれると、秀吉に降伏。

その後摂津国三田城主(現在の兵庫県三田市)として2万3000石を与えられています。

天正19年(1591)に片家が亡くなると、嫡男の家盛が三田城主として家督を継承しました。

関ヶ原の戦いでは、石田三成の挙兵を下野国小山(現在の栃木県小山市)にいた家康に報告するも、三成からの催促を受けて西軍に加勢。

細川幽斎が守る田辺城攻めに赴きますが、東軍に内通しているために戦うことなく帰路につきました。

戦後は西軍に与したことで改易処分を下されます。しかし、義理の兄である池田輝政(家盛の正室は池田恒興の娘)の尽力や三成挙兵の報告をした功績から所領安堵となりました

そして、因幡国若桜城(現在の鳥取県若桜町)への転封により、7000石の加増を受けます。その結果、家盛は3万石を有する大名となりました。

最後に

西軍に与したにも関わらず、加増を受けた片桐且元と山﨑家盛の2人。且元は豊臣とのパイプ役を期待されて、家盛は輝政の助力によってと異なる事情で加増を受けました。

家盛は棚から牡丹餅のような印象を受けますが、仕方なく西軍に与したことを考慮されていたと思われます。

且元にいたっては、最後まで豊臣と徳川両家の関係を調整していたので、処分するには惜しいと思ったのかもしれません。

 

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