政略結婚にも愛はあった。武田家滅亡に殉じた悲劇のヒロイン・北条夫人【上】:3ページ目
幸せな新婚生活。しかし……。
さて、晴れて?夫婦(めおと)となった二人ですが、北条夫人は14歳、勝頼は32歳(天文十五1546年生まれ)。その年齢差は18歳と、親子でもおかしくないほど離れていました。
これから、むしろ彼の連れ子(亡くなった前妻の子)である武王丸(たけおうまる。後の武田信勝、11歳)の方がよほど釣り合いそうなものですが、北条家としては「当主自身の正室として、より重く扱うべし」という意向、つまり「今度は裏切るなよ」と言うメッセージが込められていたのでしょう。
ともあれ夫婦仲は円満で、また北条夫人は3歳下の信勝を実子のように慈しみ、信勝もまた北条夫人を母として敬ったということです。
※ちなみに、北条夫人自身は史料によって子を産んだという記録と、産まなかったという記録があります。
そんな幸せな家庭生活の傍らで、武田家は北条と同盟しながら再び力を蓄えていたのですが、天正六1578年に越後国(現:新潟県)を治めていた「越後の龍」こと上杉謙信(うえすぎ けんしん)が亡くなると状況は一変。
謙信には実子がおらず、その養子となっていた上杉景勝(かげかつ)と、上杉景虎(かげとら)が後継者争いを開始したのでした。
「あなた……どうか我が兄上・三郎(景虎)をご支援下さいまし!」
北条夫人は景虎を支持するよう勝頼に訴えましたが、景虎は北条氏康の子で、北条夫人にとっては兄に当たります。
一方の景勝は謙信の甥であり、北条家および武田家とは何の血縁もなく、筋道から考えれば勝頼としては義兄・景虎を支援すべきところでしょう。
「う……む」
しかし、勝頼は景虎の支援をためらい、少し考え込みました。上杉家の跡を北条家ゆかりの景虎が継いだ場合、北条&上杉が武田家の東側をすべて包み込んでしまいます。
「後顧の憂いなく織田・徳川に立ち向かえるではないか」とも考えられますが、逆に「北条を敵に回すと、同時に上杉も相手しなくてはならない」とも言えます。
それよりは、上杉に独立を保たせたまま恩を売って同盟しておけば、西の織田&徳川にも、東の北条にも睨みが効いて、その後の戦略も選択肢が広がる……!
と思っていたところへ、景勝から「此度お味方下さるなら、それがしは武田家の膝下に従い、越後との国境にある信濃の五ヶ村を割譲致しましょう」との申し出。
(これが実現すれば、わしは父が川中島で五度も戦いながら、ついぞ下し得なかった上杉家を従える偉業をなしとげ、口うるさい家老どもを黙らせることが出来る!)
「……よし、喜平次(景勝)殿にお味方致そう!」
「ええぇっ!?」
勝頼の決断に驚いた北条夫人は、必死になって再考を求めるも馬耳東風。後年「御館(おたて)の乱」と呼ばれる上杉家の家督争いは、景勝が制することとなり、敗れた景虎は自刃(切腹)に追い込まれてしまったのでした。
「あぁ……兄上を見殺しにされるなどと、あんまりなお仕打ち……」
「……許せ。これも武田家のためなのじゃ……」
勝頼はそう思っていたでしょうが、この決断が最終的には武田家を滅亡に追い込んでしまうことになります。
※参考文献:
瀧澤中『「戦国大名」失敗の研究』PHP文庫、2014年6月
丸島和洋『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』平凡社、2017年9月
平山優『武田氏滅亡』角川選書、2017年2月