政略結婚にも愛はあった。武田家滅亡に殉じた悲劇のヒロイン・北条夫人【上】:2ページ目
そんな中で勃発した長篠の合戦(現:愛知県新城市。天正三1575年5月21日)。武田軍およそ2万前後に対して、織田信長(おだ のぶなが)および徳川家康(とくがわ いえやす)の軍勢は3万から7万(諸説あり)。
何もないところで真っ向から(兵の練度はほぼ同じ、かつ謀略などなしで)戦った場合、普通は数の多い方が勝ちます。
「勝てませんよ!もっと我らが優位に戦えるところまで敵を誘い込みましょう!」と決戦を諫める家老たちに対し、取り巻きたちは「いや、物見の報告によれば、敵の兵は前情報より少ないみたいだから勝てますよ!」と進言。
ここで勝頼は考えます。家老たちの無難な策を採りたいところだけど、そうすると何か悔しいし、もし取り巻きたちの言う通り織田・徳川が少なく、蹴散らす事が出来れば、家老たちも自分を認めざるを得まい……!
かくして「ここを決戦場とする!」と決断、全軍突撃を命じた勝頼ですが、欲に駆られた選択がよい結果を招くことは少なく、案の定と言うべきか織田・徳川は伏兵を隠しており、武田軍は散々に打ち負かされてしまいました。
「あーあ、だから言ったのに……」
長篠の合戦で多くの兵を失い、いわゆる「武田二十四将」と謳われた名将たちも多数討ち死に。這々(ほうほう)の体で甲斐国へと逃げ帰った勝頼は、抜本的な再建施策を求められます。
「……やむを得まい。現在対立している東の北条家と、再び同盟を結ぼう」
北条夫人が勝頼の元へ嫁いできたのは、そんな状況下でのことでした。