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【光る君へ】「刀伊の入寇」で軍功を立てた大神守宮(金児憲史)とは何者?その実像に迫る

【光る君へ】「刀伊の入寇」で軍功を立てた大神守宮(金児憲史)とは何者?その実像に迫る

鎮西在地の武者 大神 守宮(おおがのもりみや)
金児 憲史(かねこ・のりひと)

鎮西在地の武者。刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)の際に軍功を立てる。

※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより。

時は寛仁3年(1019年)3月末から4月にかけて、刀伊(女真族)の海賊が九州北部各地を襲撃。大いに荒らし回りました。後世に伝わる「刀伊の入寇」です。

当時大宰権帥を勤めていた藤原隆家(竜星涼)は、大宰府や各地の武者たちを寄せ集めてこれに対抗。死闘の末に撃退したのでした。

今回は刀伊の入寇で活躍した武者の一人・大神守宮(おおがの/おおみわの もりみや)を紹介。果たして彼はどんな人物だったのでしょうか。

多くの賊徒を射殺す

大神守宮は生没年不詳、家族やその出自などについても詳しいことは分かっていません。

古墳時代に豊後国(大分県)へ入り、宇佐神宮の神官として奉職していた大神氏と関係があるのかも知れません。

また下の名前からも、個人名ではなく神社を守る神官(職名)だった可能性も考えられます。

刀伊の入寇に際しての活躍は『朝野群載』や『小右記』などに記されました。

……十一日未明、同國早良郡至志摩郡船越津、先是分遣精兵、豫令相待、同十二日酉時上陸、與大神守宮權撿非違使弘延等、合戰、中矢之賊徒卅餘人、生得二人、其中一人被疵、一人女、少貳平朝臣致行、前監種材、大監藤原朝臣致孝、散位爲賢、同爲忠等、差加兵士、以船卅餘艘、令攻追。……

※『朝野群載』より

【意訳】4月11日未明。賊の襲来に備えるため、筑前国の早良郡と志摩郡の船越津へ精兵を派遣、伏兵として待機させた。
4月12日の酉刻(18:00ごろ)に賊が上陸すると、大神守宮や財部弘延らがこれを迎え撃って合戦となる。
賊徒30人余りが矢に射殺され、2人が生け捕られた。うち一人は手負いで、もう一人は女性である。
やがて賊は敗走し、平致行・大蔵種材・藤原致孝・平為賢・平為忠らは兵を差し加え、30余艘の兵船を繰り出して賊を追撃した。

……大神守宮、擬撿非違使財部弘延、賊徒撃却之間、計要害所々、件守宮等差加兵士豫所遣也、而於筑前國志摩船越津邊合戰之間、中件守宮等之矢者多、就中生捕者二人、但一人被疵死了。……

※『小右記』寛仁3年(1019年)6月29日条

【意訳】大神守宮や財部弘延らは賊徒を撃退するため、各所に砦や柵を設け、軍勢を配置した。
筑前国志摩郡にある船越津(ふなこしのつ)で賊徒と合戦に及び、守宮らは多くの賊徒を射止める。二人を生け捕りにしたが、うち一人は負傷のため死亡してしまう。

財部弘延と共に船越津で戦ったのは、大河ドラマで描かれた通りですね。

多くの賊徒を射殺したことから、守宮自身が弓の名手だったか、あるいは弓の達者な者を多く抱えていたことが察せられます。

もしかしたら、守宮が仕えていた?(少なくとも信仰はあったでしょう)神様の御加護だったのかも知れませんね。

2ページ目 大神守宮・基本データ

 

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