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最上義光の死後あっという間に取り潰された最上一族!後継争いで紛糾した「最上騒動」とは?

最上義光の死後あっという間に取り潰された最上一族!後継争いで紛糾した「最上騒動」とは?:3ページ目

2代目の不審死、3代目で改易

さて、2代目藩主となった家親ですが、36歳という若さで病死しました。彼は猿楽を見ている最中に苦しみ出して死んだことから、義康派の残党による毒殺ではないかと言われています。

藩主が亡くなったことで、3代目として家親の嫡子である義俊が後を継ぎますが、彼はまだ13歳という若さでした。よって家中を治められず、抗争は続いていきます。

さすがに見かねた幕府が、騒動に介入して和解案などを提示しますが、それでも騒ぎは収まりませんでした。幕府側も「いい加減にしろ」ということで改易を命じます。

13歳で藩主にまつり上げられたあげく、周囲の抗争のせいで改易処分となってしまった最上義俊は、1万石で近江に移されて病死しました。

こうして、最初は57万石あった山形藩は、どこをどう間違えたのか、たちまち衰退していきました。

戦国時代から江戸時代への過渡期は、こういうお家騒動や、領主による統治の失敗など、「統治」に慣れない領主によるトラブルがたくさんあったようです。

戦国武将としては有能でも、統治者としてはあまり才能がない人が多かったのもあるでしょうが、こうした統治システムの前例がなかったことも原因でしょう。

跡継ぎに関するルールなどがもっとしっかりしていれば、最上騒動は起きなかったかも知れません。

ちなみに山形藩はその後、地域ごとにバラバラにされて、複数の大名による分割統治のような形になりました。このうち、酒井忠勝その弟によって統治された地域では圧制が敷かれたり、お家騒動が勃発したりして、かの松平信綱を呆れさせたりしています。

こうしたトラブルを経て、「泰平の世」は作られていったんですね。

 

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