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滅亡した主家再興に生涯を捧げ”山陰の麒麟児”と呼ばれた武将「山中幸盛」の伝説【その2】

滅亡した主家再興に生涯を捧げ”山陰の麒麟児”と呼ばれた武将「山中幸盛」の伝説【その2】

尼子家の家臣として多くの武勲を残した「山中幸盛」。今回は【その1】に引き続き、「山陰の麒麟児」と謳われ、尼子家の再興と打倒・毛利に生涯を捧げた男「山中幸盛」の伝説をご紹介する。

前回の記事

滅亡した主家再興に生涯を捧げ”山陰の麒麟児”と呼ばれた武将「山中幸盛」【その1】

山陰地方出雲の支配権を獲得し、戦国大名として発展した「尼子家」。尼子家には屋台骨となって主家を支えた武将が存在した。数々の武勇を残し、後世に名を刻んだ男「山中幸盛」である。[caption i…

尼子家再興へ「第一次尼子家再興運動」

尼子家滅亡後の幸盛の具体的な足取りは定かでない。しかし、1568年、幸盛は尼子家の旧家臣と共に、尼子家再興活動を本格化する。

幽閉された主君義久に変わり、尼子家一門の精鋭隊であった一族「新宮党」の尼子誠久の五男「勝久」を担ぎ1569年に挙兵。出雲国へ侵攻した。

島根半島から上陸した再興軍は宍道湖北岸に拠点(末次城)を築くことに成功。これを足掛かりに山陰地方に勢力を拡大してゆく。再興軍は順調に支城を攻略し、出雲国内で十数の城を落とした頃には6000程度の勢力になっていたという。

出雲の有力国人を味方につけながら勢力を伸ばす再興軍に危機感を抱いた毛利軍は、攻略中であった九州攻めを休止し、再興軍の討伐へと舵を切る。

尼子家の旧本拠地、月山富田城を死守するため石見から15000の大軍を率いて進軍。対する再興軍は月山富田城から10㎞ほどの布部山に布陣。攻防戦となる。

地の利を生かして戦局を有利に進めた再興軍だったが、毛利軍の奇襲によって本陣は壊滅。毛利軍は月山富田城に入城し、再興軍は末次城まで撤退した。

その後、一時体制を立て直すも、1571年には毛利水軍の前に最後の拠点・新山城が陥落。尼子勝久は隠岐へ逃れ、幸盛は毛利軍に捕らえられた

毛利軍の吉川元春によって尾高城へ幽閉された幸盛は、毛利方の武将の助命によって所領の安堵が約束されたがこれを固辞。仮病を使って脱出に成功している。

幸盛と勝久は毛利軍から逃げ延びることに成功したが、尼子再興軍は壊滅。最初の再興計画はこうして潰えた。

【幸盛の武功】

末次城を拠点に順調に勢力を拡大した幸盛は月山富田城の攻略に取り掛かったが、石見地方の再興軍の苦戦を受け救援に向かう。出雲の原手辺りで刃を交えた両軍。幸盛は第一陣に自軍を配置し毛利軍を圧倒した。

また、1571年には長男である「幸元」が生まれている。母親ははっきりしていない。幸盛は幸元を播磨国別所氏の家臣黒田家に養子に出している。

【その3】へ続く

 

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