決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【下】:3ページ目
「……この故実を存ぜずば、たちまちに命を失ふべきか。勇士はただ騎馬に達すべき事なり。壯士等耳底(じてい)に留むべし。老翁の説、嘲弄(ちょうろう。バカにすること)するなかれと云々……」
※『吾妻鏡』建久二1191年8月1日条。
『吾妻鏡』の記録によれば、その日は一日じゅう雨がやまなかったそうですが、もしかしたら命がけで自分を救ってくれた三郎を我が手で斬らねばならなかった平太が、心の中で流した涙だったのかも知れません。
三郎の亡き後、再び大庭の家督に返り咲いた平太は、頼朝公のブレーンとして大いに活躍したのですが、それはまた別の話。
エピローグ
余談ながら、平太は二十数年の隠居暮らしに退屈していたようで、近隣の地元民を集めて宴会を開いたり、歌舞音曲(かぶおんぎょく)などの芸能に興じたりしたと伝えられています。
現代でも、懐島の地(現:神奈川県茅ヶ崎市)では平太の遺徳を慕う人々によってお囃子が盛んに伝えられているとのことで、かつて平太の自慢話に耳を傾け、笑顔で盃を酌み交わした往時の賑わいが目に浮かぶようです。
参考文献:
栃木孝惟ら校注『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』岩波書店、1992年7月30日
貴志正造 訳注『全譯 吾妻鏡 第二巻』新人物往来社、昭和五十四1979年10月20日 第四刷