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開国を求めるも船が難破…日本人と船を作りながらそのまま条約締結までしちゃったロシアのプチャーチンが尊い

開国を求めるも船が難破…日本人と船を作りながらそのまま条約締結までしちゃったロシアのプチャーチンが尊い

3100両という莫大な建築費に、200人の船大工が集められれました。そしてこの時、日本人は初めて、「竜骨」と呼ばれる骨木に肋材をいれるという、洋式帆海の技術を学んだのでした。

プチャーチンは、船建造中の12月21日、幕府側と日露和親条約を調印させることに成功します。その結果、日本は箱館・下田・長崎を、ロシアに開港することになったのです。

翌1855年3月、プチャーチンは、新しく出来上がった船を「ヘダ号」と名付け、仲間と共に再び日本を離れたのでした。

ディアナ号はその後、船体はそのまま引き上げられませんでしたが、海底に沈んだ錨がたびたび魚網を食い破ることがあり、地元の漁民や住民に「唐人のねっこ」と語り継がれていました。

1976(昭和51)年8月、五貫島の三四軒屋沖合水深24mから引き上げられ、1989(平成元)年12月21日、富士市指定有形文化財に指定されています。

参考

トップ画像: Wikipediaより

 

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