徳川家康の天下取りを支えた知られざる勇士・大久保忠豊の戦歴【どうする家康 外伝】:2ページ目
元亀3年(1572)12月22日の三方ヶ原合戦でも絶体絶命の死地を生き延び、天正2年(1574年)には嫡男の大久保忠拠(ただより)を授かります。母は正室の内藤行清娘です。
【大久保忠豊の子供たち】
長男・大久保忠拠
次男・大久保甚五郎
長女・安藤重信(対馬守)室
次女・米津清勝(清右衛門)室
三女・川上久右衛門室
四女・飯塚忠重(兵右衛門)室
五女・小笠原直光(孫六。榊原忠次家臣)室
三男・大久保忠尚(六右衛門)※『寛政重脩諸家譜』巻第七百三 藤原氏 道兼流 宇津宮支流 大久保
さらに天正3年(1575年)の長篠合戦や諏訪原合戦、天正9年(1581年)の高天神城攻め、天正10年(1582年)には甲州征伐・新府合戦(天正壬午の乱)など数々の合戦に従軍しました。
天正12年(1584年)の小牧・長久手合戦では先陣を務めた榊原康政の元で武勇を奮い、見事に首級を上げています。
かくして忠勇の士として名を馳せた大久保忠豊ですが、天正14年(1586年)3月8日に世を去ってしまいます。まだ44歳、これからという時でした。
終わりに
●忠豊 喜六郎 大久保五郎右衛門忠俊が四男、母は某氏。
東照宮につかへたてまつり、永禄三年尾張国石瀬の戦ひに首級を得たり。このとし三河国刈屋の役にも、十八町縄手にをいて敵をうちとる。六年本願寺門徒の乱年を越て平からず。このとき父兄親族等とともに上和田の要害にありて賊徒等を拒ぎ、しばしば軍功を顕はす。七年東三河に御発向あり、御油の城を攻たまふのとき、敵と鎗をあはせて首級を得たり。このとし片坂の合戦にも高名す。十二年遠江国天王山の戦ひ、元亀元年姉川の役三年三方原、天正三年長篠諏訪原の戦ひ、九年高天神、十年甲斐国新府、十二年尾張国岩崎の役等に奮戦して首級を得たり。この戦に忠豊先陣榊原小平太康政が手にあり。ゆへに仰によりて康政が組に属す。十四年三月八日死す。年四十四。法名浄泰。上和田の妙国寺に葬る。妻は内藤甚五左衛門行清が女。
※『寛政重脩諸家譜』巻第七百三 藤原氏 道兼流 宇津宮支流 大久保
以上、徳川家康の天下取りを支えた歴戦の勇士・大久保忠豊について紹介してきました。
法名は浄泰、墓所はかつて一向一揆の猛攻から守り抜いた上和田の妙国寺にあるそうです。
【大久保忠豊・略系図】
……大久保忠豊-大久保忠拠-大久保忠正-久保忠次-大久保忠亮(ただすけ)=大久保忠周(ただちか)-大久保忠延=大久保忠良(忠延弟)=大久保忠房-大久保忠兼……
※『寛政重脩諸家譜』巻第七百三 藤原氏 道兼流 宇津宮支流 大久保
大河ドラマや時代劇には登場しませんが、こうした一人一人の忠義と武勇があってこそ、歴史は作られていったのだと思います。
今後もこうした知られざる英雄たちを紹介していきたいですね。
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第4輯』国立国会図書館デジタルコレクション