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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 「どうする家康」まさか、本当にやっちまった!?第27回放送「安土城の決闘」振り返り

「どうする家康」まさか、本当にやっちまった!?第27回放送「安土城の決闘」振り返り:5ページ目

「やり直し!」信長少年の隣に座っていた老臣・平手政秀

OPのキャスト欄に「平手政秀 マキノノゾミ」とあったので、とっくに切腹した人物なのに?と思っていたら、信長少年の回想シーンでの登場でした。

恐らく来週には信長も死ぬので一回きりの登場でしょうが、せっかくなのでこの平手政秀(ひらて まさひで)についてもざっくり紹介したいと思います。

平手政秀は織田信秀(演:藤岡弘、)と信長の二代に仕えた老臣で、延徳4年(1492年)に誕生しました。信長(天文3・1534年生)の42歳年長ですね。

外交面で活躍した能吏タイプで、かつ茶道や和歌にも嗜みがあったため天文2年(1533年)に京都から訪れた公卿の山科言継(やましな ときつぐ)から賞賛されるレベルだったと言います。

信長が誕生するとその傳役(もりやく。教育係)に指名され、織田家中における次席家老を務めました。

天文16年(1547年)には信長の初陣を補佐し、翌天文17年(1548年)には織田家と争っていた美濃の斎藤道三(さいとう どうさん)と和睦をとりまとめます。

この時に、信長の正室となる濃姫(のうひめ。道三の娘)との縁談をとりつけました。

しかし天文21年(1552年)に信秀が亡くなると信長との関係が悪化。翌天文22年(1553年)閏1月13日に自刃してしまいます。享年62歳。

一去程尓 平手中務丞上総介信長公實目尓無御座様体をくやみ守立て無験候ヘハ存命候ても無詮事と申候て腹を切相果候

※『信長公記』巻之上

【意訳】政秀は信長の教育を間違ったを悔やみ「これ以上は守り立てられず、命を永らえても意味がない」と切腹して果てた。

通説では「信長の大うつけぶりを諫めるために命を捨てた」という美談が有名ですが、『信長公記』によれば政秀の長男・平手五郎右衛門(ごろうゑもん。平手久秀か)の愛馬を信長が横取りしようとして、断られた逆恨みと言います。

あるいは劇中の通り、幼少期からずっとスパルタ教育という名のいじめを受けて来た報復だったのかも知れませんね。

6ページ目 その他、ツッコミまとめ

 

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