実は下剋上を成功させた戦国大名!!浅井氏独立のきっかけとなったお家騒動とは?:2ページ目
浅井氏の下剋上を成功させたお家騒動
浅井氏は初代当主である浅井重政の頃より京極氏の譜代家臣でした。しかし、4代目に当たる浅井亮政(あざい-すけまさ)の時に、京極氏の家督を巡って家中が二分します。
当時、京極氏の当主は京極高清で後継者に次男の京極高吉を指名。逆に亮政は国衆の浅見貞則と共に、高清長男の京極高延を擁立しました。
大永3年(1523)に起きたこのお家騒動は、高延を擁立した亮政たちの勝利で収束しました。しかし、浅見貞則が専横政治を敷いたことで対立。貞則を追放したことで亮政が北近江の実権を握りました。
亮政のやり方に反発した高延は父の高清と和解し亮政を攻めますが、敗れてしまいます。そして、天文3年(1534)高清たちは小谷城にて和解。これをきっかけに、北近江の支配権が京極氏から浅井氏へ移りました。
長政の活躍で北近江での地位を確立させる
下剋上を成功させた浅井氏ですが、天文11年(1542)に亮政が亡くなると、次第に雲行きが怪しくなってきます。
勇猛な亮政に対して、家督を継いだ浅井久政は優れた面を持っていませんでした。そのため、南近江の六角氏の支援を受けた京極高吉や六角義賢が侵攻を開始。結果として、浅井氏は六角氏の家臣となってしまいました。
この弱腰の久政に家臣たちは反発し、久政の嫡男・浅井長政を擁立します。そして、久政を強制隠居させ、長政に家督を譲らせました。長政は六角氏からの独立を果たすべく、義賢と対立。
両雄は永禄3年(1560)、野良田の戦いで雌雄を決しました。この戦いで長政は勝利し、北近江での地位を確かなものにしました。
その後の浅井氏
その後の浅井氏は織田信長の妹・お市の方を正室にし、同盟関係を結びました。そして、信長を裏切り、金ヶ崎の戦いへと繋がっていきます。
この裏切には久政の発言が影響したと言われており、完全に家督を引き継げていなかったことがわかります。長政の発言権が強かったら、歴史は変わっていたかもしません。