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百姓から一国の大名に!民衆や神様に愛された戦国武将・田中吉政の立身出世を追う【下】

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秀次の切腹に際して、殉死よりも奉公を選ぶ

「……殿下!」

時は文禄四1595年7月15日、秀次が秀吉から切腹を命じられます。それまで秀吉の後継者として関白の位も譲られていたにも関わらず、文禄二1593年に実子・拾丸(ひろいまる。後の豊臣秀頼)が生まれるや、途端に疎まれてしまいました。

それで自棄を起こした秀次は欝憤晴らしに人を殺したり、比叡山の女人禁制を犯したりなど悪行三昧に走り、挙句の果てには秀吉に対する謀叛を企んだ……として関白の職を剥奪され、切腹に追い込まれたのです。

言うまでもなく久兵衛は筆頭家老として諫め続けてきましたが、いっさい聞く耳を持ってもらえないまま、最後は対面すらも叶いませんでした。

「……おい久兵衛、そなたも腹を切るべきではないのか」

今回の「秀次事件」に連座して、前野長康(まえの ながやす)、前野景定(かげさだ)、渡瀬繁詮(わたらせ しげあき)、木村重茲(きむら しげこれ)、粟野秀用(あわの ひでもち)、白江成定(しらえ なりさだ)、熊谷直之(くまがい なおゆき)、一柳可遊(ひとつやなぎ かゆう)、服部一忠(はっとり かずただ)と言った秀次の名だたる重臣たちが片っ端から死を賜っている中で、久兵衛ただ一人はお咎めなし。

そればかりか「秀次をよく諫め続けた」として加増された上に、秀吉から「吉」の字を拝領して田中吉政(よしまさ)と改名するなど明らかに不自然な処遇に、周囲の者たちは「久兵衛が(拾丸を後継者にしたい秀吉の意を汲んで)秀次を陥れたのでは?」と疑うようになりました。

「きっと治部(秀吉子飼いの寵臣・石田三成)と組んで仕組んだに違いない!」

「日ごろ善人ヅラしてその陰で主君を陥れるなど、武士の風上にも置けぬ!」

「そうだ、久兵衛に腹を切らせるべし!」

真に主君を思うのであれば、たとえ咎がなくとも、その死に殉ずる(後を追って死ぬ)べし……そうした武士たちの価値観を理解しない訳ではありませんでしたが、久兵衛は忠義のパフォーマンス(殉死)よりも、生きて天下公益に供することを選びます。

豊臣家中ではさぞや針の筵(むしろ)だったことでしょうが、天地神明に恥じることなければ、誰が何と言おうと奉公に励むまで……そして翌文禄五1596年、久兵衛は更に加増されてついに10万石の大大名に仲間入りしたのでした。

3ページ目 関ヶ原の戦功で、ついに一国一城の主に!

 

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