父から息子に引き継がれる「男色」の歴史!”絶世の美少年”と足利将軍たちとの関係【後編】:2ページ目
義教が愛した容姿端麗な若い武士
義教が愛したのは、赤松貞村(あかまつさだむら)。明徳4年(1393年)、赤松満貞の子で、非常に容姿端麗な武士だったそうです。
貞村は、妹が義教の側室となり男子を出産したことで義教に重用されました。
『嘉吉記』(作者不明の赤松氏に関する記録)に、「赤松貞村は、妹同様、義教にも寵愛された」という記述が残っているそうです。(実際には年齢差があり男色関係は難しかったのではという説もあり)
貞村は、ただ美しいだけではなく茶の湯にも通じた文化人で、義教の寵愛を一心に受けました。
義教の寵愛が引き起こした戦さ
足利義教は、幕府の財政政策の見直し・幕府権威の復活に励む一方、「悪御所」とも呼ばれる苛烈な性格で家臣のほんの少しのミスも許さず厳しい罰を与える将軍でした。
侍女のお酌の仕方が悪いと殴ったあげくに尼にさせたり、料理が口に合わないと料理人を厳罰に処したりなどやりたい放題。
当時の記録には「万人恐怖、いうなかれ、いうなかれ」と記されるほどでした。
その頃、最長老格であった赤松満祐(あかまつみつすけ)は、以前は将軍家と良好な関係にあったものの、義教にうとまれるようになっていました。
永享12年(1440年)3月、義教が、赤松満祐の弟の赤松義雅にいいがかりを付けて領地を没収、寵愛する赤松貞村に与えてしまうということが起こり、「次は赤松満祐の守護職・領地が取り上げられる」と噂が立ってしまいます。
義教の傍若無人な性格を考え、満祐は危機感を募らせたのでした。
身の危険を感じた満祐は、先手必勝とばかりに策略を考えました。1441年(嘉吉元年)、関東平定の祝勝会と称し、足利義教や武将達を自邸に招き宴会を開催したのです。
ところは、突如数十人の赤松満祐の家来が乱入し足利義教を殺害してしまいます。奇しくも、義教が贔屓にしていた音阿弥が能「鵜羽」を舞うさなかでの出来事だったそうです。
これが「嘉吉の乱」の始まりとなったのでした。
3ページ目 「自業自得」「将軍は犬死」と酷評されてしまった足利義教