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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 「どうする家康」信長を殺し、天下を獲る!?第26回放送「ぶらり富士遊覧」振り返り

「どうする家康」信長を殺し、天下を獲る!?第26回放送「ぶらり富士遊覧」振り返り

ぶらり富士遊覧を楽しむが……家康と別れた後、信長のテンション急降下?

さて、武田も滅ぼしてその遺領も配分した信長の帰り道を、家康は全身全霊でおもてなしします(肚の内を隠しながら……)。

大河ツアーズにも言及されていましたが、その行程がこちらです。

4月10日 信長、甲府⇒右左口(うばぐち。甲府市)
※家康がおもてなしを提言

4月11日 右左口⇒本栖(山梨県身延町)
※逆さ富士の絶景

4月12日 本栖⇒大宮(静岡県富士宮市)
※金銀をあしらった豪華な宿所など
※ほか人穴や白糸の滝、乗馬など

4月13日 大宮⇒江尻城(静岡県静岡市)
※三保の松原など

4月14日 江尻城⇒田中城(静岡県藤枝市)
※安倍川越え

4月15日 田中城⇒懸川(静岡県掛川市)
※大井川越え

4月16日 懸川⇒浜松城(静岡県浜松市)
※天龍川越え

4月17日 浜松城⇒吉田(愛知県豊橋市)
※浜名湖見物

4月18日 吉田⇒岡崎城⇒池鯉鮒(愛知県知立市)
※家康と最後の夜

富士山を楽しみながら東海道の名所を見物。その道中は小石一つ落ちていないように整備され、隙間なく護衛を配置、川には橋までかけてしまう念の入れよう(この時代、大きな川には橋などかかっていないのが当たり前でした)。

あちこちに茶屋が作られて一献進上(ちょっと一杯。文中この言葉がしばしば登場)、宿所には金銀まで散りばめられたそうです(そんなカネあったのですね)。

これによって家康の財力と企画力、そして実行力(4月10日に信長へ提言してから翌日~4月18日までの間に、街道の整備を実現)を見せつけたのでした。

そして興味深いのが『信長公記』の記述。こちらをザっと見て下さい(※すごく長いため、めんどくさい方は読み飛ばして大丈夫です)。

四月十日 信長公 東国之儀被仰付甲府ヲ被成御立爰ニ笛吹川とて善光寺より流出る川有橋を懸置かち人渡し申馬共乗こさせられうば口尓至而御陣取  家康公御念被入路次通鉄砲長竹木を皆道ひろひろと作左右尓ひしと無透間警固を被置石を退水をそゝき御陣屋丈夫ニ御普請申ニ付二重三重尓柵を付置其上諸卒之木屋木屋千間尓余御先々御泊御々御屋形之四方ニ作置諸士之間叶朝夕之儀下々悉被申付 信長公奇特と被成御感候いキ

四月十一日 払暁尓うば口より女坂高山被成御上谷合尓 御茶屋御厩結構尓構而一献進上申さるゝかしハ坂是又高山尓て茂りたる事大形ならす左右之大木を伏られ道を作石を退させ山々嶺々無透間御警固を被置かしハ坂之峠尓御茶屋美々敷立置一献進上候也 其日ハもとす尓至て被移御陣もとす尓も 御座所結構ニ輝計ニ相構二重三重尓柵を付させ其上諸士之木屋木屋千間尓余り 御殿之四方尓作置上下之御ま可なひ被仰付御肝煎無是非非次第也

四月十二日 もとすを未明尓出させられ寒じたる事冬之最中之如く也富士の根かたかみのか原井手野尓て御小姓衆何れもみたり尓御馬をせめさせられ御くるひなされ富士山御覧候處高山尓雪積而白雲之如く也誠希有之名山也同根かたの人穴御見物爰尓御茶屋立置一献進上申さるゝ大宮之社人社僧罷出道の掃除申付御禮被申上昔 頼朝かりくちの屋形立られしかみ井手之丸山有西之山尓白糸之瀧名所有此表くハしく被成御尋うき島か原ニ而御馬暫めさせられ大宮尓至て被移御座候いキ 今度北條氏政為御手合出勢候て高国寺かちやうめん尓北條馬を立後走之人数を出し中道通駿河路を相働身方地大宮諸伽藍を初とし而もとす迄悉放火候大宮ハ要害可然尓付て社内尓御座所一夜之 為御陣宿鏤金銀それぞれの御普請美々敷被仰付四方ニ諸陣の木屋木屋懸置御馳走不斜爰ニ而

一御脇指作吉光 一御長刀作一文字 一御馬 黒駁 以上 家康卿へ被進何れも御秘蔵之御道具也

※4月13日~4月17日は割愛。

四月十八日 吉田川乗こさせられ五位ニ而御茶屋美々敷被立置西入口ニ結構ニ橋を懸させ御風呂新敷被立珍物を調一献進上大形ならぬ御馳走也本坂長澤皆道山中尓て惣別石高也今度金棒を持而岩をつき砕かせ石を取退平ラニ被申付爰ニ山中之宝蔵寺御茶屋西尓結構尓構而寺僧喝食老若罷出御禮申さるゝ正田之町より大比良川古させられ岡崎城之腰むつ田川矢はせ川尓ハ是又造作ニテ橋を懸させ可ち人渡し被申御馬共ハ乗こさせられ矢はきの宿を打過て池鯉鮒尓至て御泊 水野宗兵衛 御屋形を立而御馳走候し也

※『信長公記』巻之十五(天正十年壬午)(廿三)信長公甲州ヨリ御帰陣之事

うわぁ……ビッシリですね。4月10日から4月18日まで、実にイベントが盛りだくさん。
しかし、これが家康と別れた後はこうなります。

四月十九日 清洲迄御通

四月廿日 岐阜へ被移御座

四月廿一日 濃州岐阜より安土へ御帰陣之處ニ……(以下略)

※『信長公記』巻之十五(天正十年壬午)(廿三)信長公甲州ヨリ御帰陣之事

※4月19日、4月20日は原文ママ(それぞれ一行のみ)です。

【まとめて意訳】4月19日、清州に到着。4月20日、岐阜に到着。4月21日岐阜から安土にお帰りのところに(以下略)

……もう何とも実にアッサリと言いますか。書くのもめんどくさそうな(とりあえず事務的に描いている)空気を感じますね。

『信長公記』は信長自身ではなく、側近の太田牛一(おおた ぎゅういち/うしかず)が書いたものですが、これは彼が側近く仕えている信長のテンションも少なからず影響しているのではないでしょうか。

(実は大好きな)家康がお見送りしてくれるのは徳川領内まで。織田領内に入って家康と別れたら、急につまんなくなって「あーあ、さっさと帰ろ!」と思ったのかも知れませんね。

でも大丈夫。この翌月(天正10・1582年5月)に家康を安土に招待しますから、信長も寂しくありませんね。それまで我慢できますよね?

※家康が「今川氏真(演:溝端淳平)に駿河国を返していいですか?」と尋ねたエピソード

【大河ドラマ予習】武田勝頼が滅亡、恩賞として得た駿河国を、今川氏真に返す?どうする?【どうする家康】

天正10年(1582年)3月11日、甲斐国天目山(山梨県甲州市)で武田勝頼(演:眞栄田郷敦)・武田信勝(のぶかつ)父子が自害。ここに戦国最強と謳われた武田一族は滅亡しました(甲州征伐)。甲斐・…

5ページ目 第27回放送「安土城の決闘」

 

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