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瀬名・信康と対立する五徳。悲劇「築山殿事件」を招いた信長への告げ口がこちら【どうする家康】:3ページ目
忠次は「それらの件については、それがしも承知しておりますが、浮足立ってはなりませぬ(某も一々承りぬる事どもなり敢て浮たる事にあらず)」と回答します。
デマに踊らされてはならない。あるいは「何を今さら慌てておいでか。もう皆とっくに知っていますぞ」というニュアンスだったのでしょうか。
「仕方あるまい。ただちに両名を処刑するよう、徳川殿へお伝えせよ(此うへは力なし速やかに失はるべき旨徳川殿に申べし)」
どうやら信長は忠次の微妙な回答をもってクロ(武田と通じている)と判断したようです。
かくして伝言を受けた徳川家康(演:松本潤)は天正7年(1579年)8月29日に瀬名を処刑。続いて9月15日に信康へ切腹を命じたのでした。
終わりに
最愛の妻・瀬名と将来を託したかった嫡男・信康を喪ってしまった家康。悲しみに暮れる中、ちゃんと弁護してくれなかった忠次をたいそう恨んだそうです。
しかし実際にはただ五徳の書状だけではなく、瀬名と信康が武田と内通していた証拠が出てきてしまったためと考えられます。
ずっと対武田の楯とされ続ける徳川家を案じた信康が、長篠合戦で敗れたとはいえ、いまだ強大な勝頼に寝返ろうと考えた可能性も否定はできません。
そうでもなければ、さすがに信長も「瀬名と信康を殺せ」とまでは言えなかったでしょう。もちろん家康も殺しはしなかったはずです。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、瀬名と信康をどのように処するのか、まさに「どうする家康」と言えるでしょう。
※参考文献:
- 成島司直『改正三河後風土記 上』国立国会図書館デジタルコレクション
- 本郷和人『徳川家康という人』河出書房新社、2022年10月
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