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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 「どうする家康」甲斐の虎、ついに始動!そして女城主の壮絶な最期…第11回放送「信玄との密約」振り返り

「どうする家康」甲斐の虎、ついに始動!そして女城主の壮絶な最期…第11回放送「信玄との密約」振り返り:2ページ目

源氏の末裔が、なぜ「藤原」家康に?

松平家が源氏の末裔なんて、怪しいものじゃ……そうぼやいて三河守への任官を面倒がる家康。

しかしこの当時、朝廷から(たとえ名目上でも)国司に任じられることは国内統治において大きな影響力を持ちました。そんな堅苦しいものは要らない、めんどくさい等と一笑に付せるものではありません。

だからみんなで家系図をひっくり返して(捏造して?)、年額300貫の賄賂を積んででもも公家に仲介を頼み、晴れて三河守になったのですが……。

祝賀の垂れ幕には「従五位下徳川三河守『藤原』家康朝臣」と。

あれ?三河守になるには源氏の末裔であることが条件だったのでは?そう思った視聴者は少なくないはず。

実は松平家は清和源氏の末裔を自称していましたが、三河守の任官は藤原氏に限るとのこと。

そこで祖先を遡り、得川(とくがわ、えがわ)氏が藤原氏にもつながると主張。

【松平氏略系図】

……源清信-源清義-得川義季-頼氏-家時-満義-■義-親季-親氏-信光-親忠-長忠-信忠-世良田清康-広忠-家康……

※NHK大河ドラマ「どうする家康」劇中の家系図より(諸説あり)

果たして家康は永禄9年(1566年)12月29日に三河守となったのでした。

……九年十二月廿九日叙爵し給ひ三河守と称せられ……

※『東照宮御実紀』巻二 永禄七年-同十一年「永禄九年家康叙爵任三河守尋兼左京大夫」

文中の叙爵とは五位以上の位階を授かる(叙せられる)こと。なお、江戸幕府の公式記録『徳川実紀附録』によると、家康が徳川を称したのはそれから3年後の永禄12年(1569年)1月3日であるとの記述があります。

……永禄十二年これより先松平の御称号を止められ。徳川の舊氏を用ひ給ひしかども。舊冬此よしはじめて京都将軍家(義昭。)へ申請れ。近衛左大臣前久公もて叡聞に達せられ。去冬十二月九日   勅許ありて。この正月三日将軍家より口宣案にそへて御内書御太刀を贈らる。(武徳編年集成。)

改年之吉兆珍重々々。更不有休期候抑
徳川之儀遂執 奏候處。
勅許候。然者口宣案并女房奉書申調
指下之申候。尤目出度候。仍太刀一腰進上候。
誠表祝儀計候。萬々可申通候也。
正月三日   義昭
徳川三河守殿

※『東照宮御実紀附録』巻二「文禄(原文ママ)十二年勅許徳川称号」より

単なる年号の書き間違いか、あるいはまず三河守に任官してから、後付けで徳川と改姓したのかも知れません。

ちなみに石川数正(演:松重豊)が「(祖先をいくらでもでっち上げられるなら)私もヤマトタケルの末裔かも知れん」と笑っていましたが、石川氏は清和源氏の末裔ですから、実際その通りになります(系図は割愛)。

なお、家康は後に征夷大将軍となるために姓を藤原氏から源氏に戻しています。結構アバウトな時代だったようですが、こちらも多額の費用がかかったのは言うまでもありません。

3ページ目 知らぬは氏真ばかりなり……今川家臣団への調略

 

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