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巨大化して大流行!古代日本を象徴する「古墳」は庶民のステータスとして変化していった?

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また、古墳の巨大化には、当時の国際情勢も大きく関係しています。

当時は東アジア情勢が激動しており、ヤマト政権と朝鮮半島の諸勢力は敵対したり接近したりを繰り返していました。

同時に、渡来人の活発な往来もありました。

こうした情勢を受けて情報交換が進み、五世紀末頃から、日本の古墳はそれまでの「長さ」重視から、当時の東アジアでの墳墓造りのスタンダードである「高さ」を重視する方向へと舵を切っていきます。

例えば、長崎県の壱岐をはじめとする各地では、この時期から高さを重視した古墳が増加しています。

壱岐は地理的に朝鮮半島に近いだけでなく、外交に従事した氏族もいたことから、彼らを通して新しい古墳の形態が伝わっていったのでしょう。

こうした変化を経つつ、古墳造りの文化は庶民にも広まっていきます。

庶民の「ステータス」になった古墳

古墳時代後期になると、地方豪族の古墳は小規模になります。また同時に、有力農民層がつくった群集墳といわれる小規模な古墳の密集が急激に増えます。

古墳の数は全国に十数万基あるとされますが、都道府県別トップを誇るのが兵庫県です。その数を押し上げているのが「群集墳」で、これは同時多発的に築造されているのが特徴で、およそ五世紀ごろに出現しました。

大山古墳(伝仁徳天皇陵)のような巨大古墳は強大な権力者一人のために造られますが、群集墳は血縁集団の家長的存在の人物が亡くなるごとに次々と造られていくので、数十年の間にかなりの数になります。だから同時多発的なのです。

こうした小規模な古墳が増えたのは、ヤマト政権の影響力が広範囲に拡大して古墳を造ること自体が大衆化し、おそらく一種の「ステータス」にもなっていたからでしょう。もちろん、先述のような技術革新によって庶民でも比較的楽に古墳を造ることができるようになったこともあります。

副葬品も日用品などが入れられるようになり、古墳はいつしか一人の権力者のものではなく「ファミリー」のものとなっていきました。

古墳といえば権力者の権力の象徴だと歴史の教科書で学んできた私たちですが、考えてみると日本のあちこち、それもヤマト政権の中枢から遠く離れた地域でも古墳が発掘されたりしていますね。これも、古墳のあり方が変貌していった歴史に照らし合わせてみることでようやく理由が分かります。

参考資料
山﨑圭一『一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書』2019年、SBクリエイティブ株式会社
歴史の謎研究会編集『誰もがその顚末を話したくなる 日本史のネタ全書 (できる大人の大全シリーズ)』2016年、青春出版社
國學院大學メディア「古墳を巨大化させた技術革新・・・そして終焉へ」

 

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