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【関ヶ原の合戦】死を覚悟した鳥居元忠(音尾琢真)が息子たちに送った遺言がコチラ【どうする家康】:2ページ目
敵が何十万で包囲しようと、突破するのは容易いが……
……其辞に、今度上方の大小名数多石田が奸計に陥て尽く蜂起し、先づ當城を攻落さんとの聞えあり、我等に於ては城を枕に討死すべき覚悟なり、大阪(※原文ママ)勢何十萬騎にて攻寄せ、千重に圍むと雖も一方を打破て退んに手間取るべからず、夫は武士の本意にあらず、忠節とは言難し、我爰にて天下の勢を引受け、百分一にも対し難き人数を以て防ぎ戦ひ、目覚敷討死して、徳川の御家風を守る所の城を明け、難を遁れ命を惜み、敵に弱みを見せぬ者ぞと、御家人衆にも覚悟させ、天下の士に義を進むる手始とならんと存ずるなり、……
※『名将言行録』巻之五十一 鳥居元忠
【意訳】こたび上方の者たちが石田治部めにそそのかされて兵を興し、真っ先にこの伏見城を攻め落とそうとしておる。わしらは城を枕に討死する覚悟じゃ。
大坂の連中が何十万という大軍でどれほど厳重に包囲したところで、その気になれば突破脱出するなどたやすいこと。しかしそれは武士の本意ではなく、主君へ忠節を尽くしたとは言えぬ。
わしらはここで天下の大軍を食い止めるため、百分の一にも満たぬ人数で死ぬまで戦うまで。目覚ましき武勇をもって徳川の御家風を示すのじゃ。
間違っても数で脅されて敵に城を明け渡すような腰抜けは一人もおらぬと、徳川家中は元より天下の心ある者たちに率先垂範せんと思っておる。
譜代の誇り・亡き父や兄たちの忠義
……左なき所にてすら、恥を知る士の死を遁るゝ道は之なし、況や君の為めに命を歿すること常の法なり、平生待儲たる所にて、箇様の時節に出合ふこと心ある日とは羨ましかるべし、其元能く心得べきは、我等が先祖代々御譜第と云、取分亡父伊賀守殿清康公に御奉公申され、其後廣忠公へ忠勤を勵まる、又兄源七郎殿は渡里に於て討死して忠を盡されたり、當君御幼少にて駿河に渡らせ給ふにも、守立申ん為め、伊賀守殿駿府は御供なり、其後當君十五の御歳岡崎へ帰らせ給ふにも、無二の忠義怠ることなく、八十歳に余るまで一生別心せず、當君にも又となき者に思召されたり、……
※『名将言行録』巻之五十一 鳥居元忠
【意訳】およそ武士たる者、恥を知るならば死を逃れようとしてはならぬ。いわんや主君のために命を投げ打つことは常識であり、平素から心待ちにしておくべきですらあろう。こたびこのような時節にめぐり会えた父を羨ましいと思うべきだ。
そもそも心得ておくべきは、我らが鳥居家は御譜代すなわち先祖代々徳川家に奉公してきた名門である事実。その中でもわしの父上・鳥居忠吉は松平清康公(家康祖父)・松平広忠公(家康父)そして殿と三代にわたり忠義を尽くされた。我が兄の源七郎(鳥居忠宗)も命を投げ打って忠義を尽くされたのじゃ。
殿が今川への人質として駿河へ贈られた時も父上はこれに従い、後に殿が15歳で岡崎城へ戻られた際も、軍資金を蓄えるなど忠義を尽くされた。そして80余歳の生涯で忠義をまっとうし、殿も父上をかけがえなく思し召されたのであろう。
3ページ目 忠義に生きた49年・その最期を飾る最高の晴れ舞台
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