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戦国時代は「椅子取りゲーム」から始まった!「明応の政変」後のややこしい争乱まとめ【前編】

戦国時代は「椅子取りゲーム」から始まった!「明応の政変」後のややこしい争乱まとめ【前編】

将軍の座を巡り三つ巴に

三人の養子の家督争いの元凶となった政元は、1507年に暗殺されます。彼は入浴中に襲われたと言われていますが、もともと修験道に没頭して天狗に扮したりするなどの奇行・悪癖があったといわれ、そうした魔術がらみの「入浴」だったようです。

これは細川殿の変と呼ばれ、澄之を擁する幕府重臣・香西元長らの仕業でした。

さらにその翌日には、澄元が屋敷にいるところを元長に攻め込まれ、近江へと敗走します。

もう一人の養子である高国だけは、澄元を支持することを表明して挙兵し、澄之を討ち滅ぼしたのでした。

これだけでもややこしい話なのですが、今度はこの政変に乗じて、大内義興が周防から、前の将軍だった足利義材(よしき)を奉じて上洛します。

厳密にはこの時、義材は足利義稙(よしたね)へと改名していました。彼はかつて政元から京を追われたものの、越中・越前を経て大内氏に保護されていたのでした。そして、将軍職に復帰するべくチャンスを伺っていたのです。

こうして、今度は政元の養子である細川澄元と、11代将軍義澄と、前将軍の義稙の三つ巴となりました。ますます事態が混迷していくさまは、【後編】で解説します。

後編はこちらから

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

 

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