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蘇我氏4代の墓を探る!初代・蘇我稲目(そがのいなめ)の墓は都塚古墳か?【後編】

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都塚古墳は蘇我稲目の墳墓なのか

ですから、蘇我稲目が6世後半にその本拠の南端に葬られ(都塚古墳)、続いて馬子が隣接する地に葬られた(石舞台古墳)という推測は十分に成り立つと考えられます。

そして、蘇我本宗家の権力が成熟期を迎えた蝦夷・入鹿の時代になると本拠地は南の甘樫丘付近に移動していくのです。

甘樫丘の東麓からは、蝦夷・入鹿の邸宅跡とみられる遺跡が発掘され、隣接する小山田遺跡からは、一辺80mの巨大方墳・小山田古墳が発見されました。

小山田古墳からは、結晶片岩や榛原石の板石の破片が多数みつかっており、都塚古墳同様に、葺石を貼り付けた階段状の方墳であったことも考えられます。小山田古墳を蘇我蝦夷の大陵とする説も有力となってきています。

 

石舞台古墳の墳丘は、すでに失われています。しかし、墳丘の裾部分に石積みがなされていたことは、今も現地で確認することができます。

 

こうしたことから、都塚古墳(稲目墓)ー石舞台古墳(馬子墓)ー小山田古墳(蝦夷墓)という葺石を貼り付けた階段状のピラミッド型方墳を、蘇我4代の墳墓と考えることもできるのではないでしょうか。

ただ、そのためには、『日本書紀』の記述のように、小山田古墳の西側100mに位置する菖蒲池古墳が入鹿の小陵でなければなりません。

菖蒲池古墳が入鹿の真墓と判明すれば、都塚古墳ー石舞台古墳ー小山田古墳ー菖蒲池古墳蘇我本宗家4代の墳墓となり、都塚古墳が蘇我稲目の真墓となる確率が高くなるのですが、この結論に至るにはまだまだ多くの考察が必要だと思います。

 

次回も「蘇我氏四代の墓を探る!」として、馬子・蝦夷・入鹿の墳墓についての考察を続けていきたいと思います。どうぞ、お付き合いください。

 

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