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江戸時代にも活躍していた!武田信玄の軍師・山本勘助の伝説を受け継いだ子孫たち【下】

江戸時代にも活躍していた!武田信玄の軍師・山本勘助の伝説を受け継いだ子孫たち【下】:2ページ目

六代目・山本菅助(四代目菅助)

※寛永九1632年生~元禄五1692年没

三代目菅助の嫡男ですが、諱は不詳。延宝八1680年に主君・永井信濃守尚長(ながい しなののかみなおなが)が家臣に殺害され、跡継ぎがなかったために改易されると、土浦藩主の松平因幡守信興(まつだいら いなばのかみのぶおき)に仕えました。

貞享二1684年、土浦城(現:茨城県土浦市)の普請奉行を拝命した菅助は、大手口(高津口)を武田流の出枡形に、搦手口(真鍋口)に丸馬出を二つ重ねるなど、初代菅助が考案したと言われる城取(ここでは築城術の意)を採用。

また、寛文十二1672年4月に甲斐国の恵林寺(えりんじ。現:山梨県甲州市)で執り行われた「信玄公百回忌」法要に参列した記録が残されています。

七代目・山本十左衛門尉

※生没年不詳

四代目菅助の養子で、諱は不詳。山本家は代々嫡男を「菅助」、養子を「十左衛門尉」と称するしきたりになっていたそうです。

主君・松平右京亮輝貞(まつだいら うきょうのすけてるさだ)の命を受けて転封先の壬生城(現:栃木県下都賀郡壬生町)の改修を担当、父祖伝来の「山本勘助流(※)城取術」を採り入れました。

(※)実在の菅助と伝説上の勘助が混在する中、後者の方がウケも良かったのか、よくこちらの「勘助」表記がブランディングに使われていたようです。

以後、山本家は松平藩における城取(城の構築と防衛)を司る家門として位置づけられていったそうで、それからも高崎藩(元禄八1695年~現:群馬県高崎市)、越後村上藩(宝永七1710年~現:新潟県村上市)、再び高崎藩(享保二1717年~)と転封を繰り返す中、幕末まで仕え続けたそうです。

現代もこれらの地には松平藩の名残を見ることが出来るので、もしかしたら城の遺構に勘助流兵法の名残を発見できるかも知れません。

【完】

※参考文献:
海老沼真治編『山本菅助の実像を探る』戎光祥出版、2013年
丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
笹本正治『軍師山本勘助―語られた英雄像』新人物往来社、2007年
山梨県立博物館編『実在した山本菅助』山梨県立博物館、2010年

 

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