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一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【三】

一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【三】

危機一髪!西郷隆盛の仲裁で事なきを得る

「……お断りします」

「何だと?その方らは朝敵の分際で……」

「黙らっしゃい。下手に出ればつけ上がりおって、我らがこれだけ平身低頭しておるにも関わらず、断じて滅ぼそうと言うなら上等だ……総力を挙げてかかって来るがいい!」

「その方、正気か!」

「……ちょうど先刻の馬関戦争で欧米列強から会得した戦術と、多数鹵獲した最新兵器を試したかったところじゃ。英仏蘭米を相手に善戦し、謀略の限りを駆使して彦島を奪還した我らが武略、とくとご覧に入れようぞ!」

晋作譲り?のハッタリをかました経幹ですが、たとえ本当に攻め滅ぼされようと、ここで主君を売り渡してしまったら、何のために関ケ原以来、徳川にリベンジを期して耐え忍んで来たのか分かりません。

経幹の覚悟と気魄が伝わったのか、首実検に同席していた薩摩藩の大島吉之助(後の西郷隆盛)が仲裁に乗り出します。

「まぁまぁ……無用な血を流すのは本意にごわはんで……」

という訳で、大目付の体面を保つよう、長州藩には以下の条件を追加しました。

一、藩主父子による謝罪文の提出
一、新拠点・山口城の破却(全部とは言っていない)

かくして謝罪は受け入れられ、第一次長州征伐は戦闘に至ることなく12月27日(1865年1月24日)に終結。波瀾万丈な元治元年はこうして暮れていったのでした。

ところで、これまでの交渉に際して経幹は抵抗しない意思を示すため、寸鉄一つ帯びずに敵陣の真っただ中に赴いており、その覚悟と豪胆を称えた人々が

「神か仏か 岩国様(領主=吉川経幹)は 扇子一つで 槍の中」

と歌った都都逸(どどいつ。七七七五の歌)が現代に伝わっています。

3ページ目 幕府軍が四方向から攻めて来た!

 

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