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一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【三】

一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【三】

幕府軍が四方向から攻めて来た!四境戦争(第二次長州征伐)では芸州口を死守

明けて元治二1865年は昨年の社会不安を受けて4月7日に慶応と改元されましたが、一度「長州を征伐する」と言っておきながら実現できず、長州の謝罪を受けたとは言えメンツを潰された幕府は、このまま黙っている訳には行きませんでした。

一方で長州藩も「武備恭順(ぶびきょうじゅん。従いはするが、武力は備える)」をモットーに再軍備を進め、幕府からの藩主引き渡し要請をはぐらかし続けると同時に、周辺諸藩に対して工作活動を展開(いわゆる薩長同盟もその一環)。

「もはや交渉の余地なし」と決断した幕府は、慶応二1866年に長州へ宣戦布告。6月7日の屋代島(周防大島)砲撃によって第二次長州征伐の火蓋が切って落とされたのでした。

東西南北から包囲され、約10万人以上の大軍が攻め込んできたため、長州藩では「四境戦争」と呼んだそうですが、幕府軍を迎え撃つ長州藩は約3~4千人と、25倍以上の兵力差に絶望しか感じられません。

しかし、世の中こういう状況であるほど興奮してしまう変態は一定数いるもので、例の高杉晋作などは、奇兵隊を率いて大暴れ。卑しくも代々毛利家に仕えてきた譜代の我らが負けてなるものか、と経幹も兵を率いて家老・宍戸備前守親基(ししど びぜんのかみちかもと)と共に芸州口を固めます。

6月13日、幕府軍は紀伊藩(現:和歌山県)をはじめ、彦根藩(現:滋賀県)と高田藩与板藩(現:新潟県)など3万の軍勢が芸州口に迫り、翌14日早朝から本格的な戦闘に突入。

長州軍は寡兵(かへい。少人数)ながら当時最新鋭だったフランス製ミニエー銃(※)を装備しており、旧式のマスケット銃などを用いていた幕府軍を圧倒。その先鋒を文字通り血祭りに上げ、戦場となった小瀬川が真っ赤に染まったとの事です。

(※)銃身にライフル(螺旋状の溝)を刻んだことで、従来よりも大口径かつ高速高精度の射撃を可能にし、人体への殺傷力が格段に向上しました。

この戦闘で壊滅させられた彦根藩と高田藩は戦線から離脱(後方の警戒を担当していた与板藩は既に退却)、紀州藩のみが踏みとどまって戦闘を継続。6月19日に再び銃撃戦を繰り広げますが、戦線は一進一退の膠着状態となります。

「よし、このまま粘れば……!」

アッと言う間に決着がつくと思われた長州征伐ですが、戦闘が長引く内に各藩は戦意を喪失。元から出兵を拒否する藩も少なからず、7月20日には第14代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)が亡くなったこともあり、一藩また一藩と撤退していった結果、9月2日には停戦合意によりすべての戦闘が終了しました。

「やった……勝ったぞ!」

「ついに守り抜いたんじゃ!」

四境戦争の勝利によって長州藩がその命脈をつないだ一方、徳川将軍家はその実力が「張子の虎」に過ぎなかったことが知れ渡ってしまい、やがて迎える滅亡を決定的なものとするのでした。

【続く】

※参考文献:
児玉幸多・北島正元 監修『藩史総覧』新人物往来社、1977年
中嶋繁雄『大名の日本地図』文春新書、2003年
大山柏『戊辰戦役史 上下』時事通信社、1968年
笠谷和比古『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』講談社学術文庫、1994年

 

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