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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 徳川家康の後室・旭姫(山田真歩)とはどんな女性?その生涯をたどる【どうする家康】

徳川家康の後室・旭姫(山田真歩)とはどんな女性?その生涯をたどる【どうする家康】:2ページ目

徳川・羽柴両家の橋渡しを務める

さて、天正14年(1586年)に徳川家へ嫁がされた旭姫。秀吉は元夫(佐治日向守?副田吉成?)に慰謝料がわりに捨扶持の500石を与えます。

面目を潰された元夫は、これを恥じて自害したとも、出家遁世したとも言われます。いずれにしても、幸せな末路でなかったことは想像に難くありません。

話を戻して旭姫は4月に大坂城から京都の聚楽第に入り、浜松へ向けて5月に出発しました。

道中の護衛は浅野長政(あさの ながまさ)・滝川儀太夫(たきがわ ぎだゆう)・津田四郎左衛門(つだ しろうざゑもん)・富田知信(とだ とものぶ)そして織田長益(おだ ながます。織田有楽斎)に滝川雄利(かつとし)も加わり、150余名という大所帯。

まさに鳴り物入りで浜松へ到着したのが5月14日。間もなく駿府へ移ったので、人々からは駿河御前(するがごぜん)と呼ばれました。

かくして秀吉の義弟となった家康。しかしなおも上洛≒臣従しなかったため、秀吉は徳川家に嫁いだ妹の様子伺いという名目で、母の大政所まで人質に出したのです。

ここまでされては流石の家康も意地を張ってはおれず、とうとう上洛して秀吉に臣従する態度を表明。小牧・長久手の合戦よりおよそ二年間の対立から和解したのでした。

エピローグ

やがて大政所も解放され、天正16(1588年)になると今度は旭姫の方から母の病気見舞いに上洛。

病気がよくなったので一度は帰国したものの、再び上洛するとそのまま聚楽第に住むようになりました。

徳川家としても、別につなぎ止めておきたい訳ではなかったのでしょう。

そして天正18年(1590年)1月14日、旭姫47歳で世を去ったということです。

彼女は東福寺(京都府京都市。臨済宗)に葬られ、その法名を南明院殿光室宗王大禅尼(なんみょういんでんこうしつそうおうだいぜんに)と言います。

一方で家康は駿府の瑞龍寺(曹洞宗)にも旭姫の墓を作っており、こちらの法名は南明院殿光室総旭大姉(なんみょういんでんこうしつそうきょくだいし)とのこと。

彼女自身は臨済宗に帰依していたのに対して、家康としては曹洞宗を推していたようです。

もしかしたら、家康としては政略結婚ながら正室であった彼女に対して、一定の愛情を寄せていたのかも知れませんね。

終わりに

兄の野望に振り回される妹

旭 あさひ
[山田真歩 やまだまほ]

家康を屈服させたい兄・秀吉の思惑で夫と離縁させられ、人質として家康のもとへ嫁ぎ、正妻となる。田舎育ちの純朴な心優しい女性で、自分の役目を全うしようと、懸命に家康に尽くす。

※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト(登場人物)より。

以上、旭姫の生涯をたどってきました。果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」ではどのようなキャラクターに描かれるのでしょうか。

単なる政略のコマとしてではない、彼女の人間的な魅力も描いてくれると嬉しいですね。

※参考文献:

  • 『NHK大河ドラマ・ガイド どうする家康 後編』NHK出版、2023年5月
  • 小和田哲男ら編『豊臣秀吉事典 コンパクト版』新人物往来社、2007年6月

トップ画像(左):NHK大河ドラマ「どうする家康」公式HPより

 

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