この名前はキツすぎる!戦国時代にも結構多かった「キラキラ(?)ネーム」の数々:2ページ目
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幼名が「キラキラ」「ドキュン」でもOKだったワケ
現代では「キラキラネーム」のために就職が不利になったり、出世に影響が出たり、救急車で緊急搬送されるときなどに名前が読めなくて命に関わる問題となったりと、問題点がしばしばクローズアップされています。
このような問題は、戦国時代や江戸時代には起こらなかったのでしょうか?
実は当時は、生まれた時につけられた名前を一生名乗り続けるわけではありませんでした。
平安~江戸時代の貴族や武士の子供たちは、誕生から成人となるまでの間は、親から最初につけられた「幼名」で呼ばれました。
そして概ね15歳くらいで元服を迎えた後は、実名(じつみょう)である「諱(いみな)」と、「仮名(けみょう)」という2種類の新しい名前が与えられます。
当時は本人に向かって実名で呼びかけることはとても失礼なことで、代わりに「仮名」を呼ぶのがマナーでした。
たとえば織田信長に仕えていた頃の豊臣秀吉の場合、フルネームは「木下藤吉郎秀吉」「羽柴筑前守秀吉」でした。この中の「秀吉」は「諱」にあたり、「藤吉郎」「筑前守」が周囲から日常的に呼ばれる「仮名」だったということになります。
ちなみにこれは男性の場合で、女性は大人になっても幼名を名乗ることが多かったのだとか。
ですから
「親から変わった名前をつけられた!出世に影響が!」
という現代のような問題は、少なくとも男性の場合は原則起こらなかったと考えられます。
歴史上の人物のバラエティ豊かな「幼名」についても、別の機会に記事として取り上げられたらと思います。
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