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意外に武闘派?継母に復讐を遂げて家督を奪還した戦国大名・足利茶々丸

意外に武闘派?継母に復讐を遂げて家督を奪還した戦国大名・足利茶々丸

讒言による幽閉と、継母への復讐

やがて次男の義澄が室町将軍の後継者候補として京都へ赴くと、三男の潤童子を堀越公方の座に就かせたい円満院は、茶々丸の不行跡を政知に讒言(※ざんげん。他人を陥れるために偽りを吹き込むこと)します。

「公方様、あの茶々丸めはあーでもないこーでもない……」

「何だと……あやつめ、許せぬ!」

円満院の讒言をすっかり信じ込んだ政知は茶々丸を廃嫡して後継者の座から外し、それを諫めた執事の上杉政憲(うえすぎ まさのり)は自害を命じられてしまいました。

「父上……!」

茶々丸は土牢に幽閉され、数年間にわたり円満院らによる虐待を受け続けますが、延徳3年(1491年)に政知が病死すると、牢番を殺して脱獄に成功。

「この怨み、晴らさでおくべきか……!」

「茶々丸……そなたは継母を手にかけようと申すのか!」

「やかましい、継子をいじめ抜いた鬼婆が何を吐かすか!」

にっくき円満院と潤童子を殺して復讐を果たした茶々丸は事実上の堀越公方となったものの、円満院派であった重臣の外山豊前守(とやま ぶぜんのかみ)や秋山新蔵人(あきやま しんくろうど)を討ったため、支持を失ってしまいます。

この混乱に乗じて攻め込んで来たのが、かの伊勢宗瑞という訳です。

エピローグ

「畏れ多くも将軍(義澄)の御母堂を弑(しい)した逆賊・茶々丸を討つべし!」

明応2年(1493年)、混乱の続く伊豆国へ伊勢宗瑞が攻め込むと、鈴木繁宗(すずき しげむね)や松下三郎右衛門尉(まつした さぶろうゑもんのじょう)といった伊豆国の豪族たちはこれに寝返り、茶々丸は孤立無援に陥ります。

「最早これまでか……っ!」

従来の説ではここで自刃して果てたと考えられていましたが、実際には捕らわれて伊豆国から追放されたそうです。

その後も伊豆国を奪還するべく奔走したものの、明応7年(1498年)に再び捕らわれ、自害して果てたのでした。

幼くして継母に陥れられ、苦難の果てに復讐を遂げるも人望を失って滅ぼされてしまった茶々丸。彼の行動に非がない訳ではありませんが、その境遇には同情の余地も多分にあり、また宗瑞の引き立て役として暗愚に歪められてしまった感も否めません。

歴史に「~たら、~れば」を持ち出しても意味はないものの、もし円満院や潤童子を殺さず京都へ送っていたら、また粛清してしまった重臣たちをそのまま重用するだけでも、その後の展開は大きく変わったのではないでしょうか。

※参考文献:
石田晴男『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』吉川弘文館、2008年6月
杉山一弥『室町幕府の東国政策』思文閣出版、2014年2月

 

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