戦国時代、バテレン追放令の波に翻弄された「天正遣欧少年使節」の少年たちのその後
日本史を勉強した方なら名前くらいは知っている天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)。千々石ミゲルや伊東マンショなど漢字+カタカナというインパクトのある日本人少年4人が、大友宗麟や大村純忠といったキリシタン大名の代わりとして、ローマ教皇に謁見する為にローマへ派遣された使節団です。
しかし、日本史の教科書では上記のことだけ書かれているので、4人がその後どうなったのかの後日談があまり知られていません。
今回は4人がローマ法王に会う目的を果たした後、何をしていたのかに焦点を当ててご紹介します。
帰国後は豊臣秀吉と会った!
4人は天正10年(1582)に日本を発った後、天正18年(1590)に日本へ戻ってきます。日本に帰国したら、キリスト教のことや海外のことを話そうと考えて4人は意気揚々としていたことでしょう。
しかし、8年後の日本はキリスト教を徐々に国外に追い出そうとしている最中でした。
4人がまだ航海中の天正14年(1587)、豊臣秀吉によって伴天連(バテレン)追放令が出されます。
これにより布教活動を行う宣教師の追放やキリシタン大名による強制的な改宗が禁止になりました。
しかし信仰活動や自主的な改宗は自由だったこともあり、宣教師たちは公然の活動を避けつつ、各地で潜伏しながら活動をしていました。
そんな状況下の中で帰国した4人は翌年、秀吉に拝謁します。4人は秀吉の前で西洋楽器による演奏を披露し、秀吉を大いに喜ばせました。
そして、4人を気に入った秀吉は家臣になるよう勧めますが、司祭になることを決めていたので断ってしまいます。
その後4人は神学校で勉学に励み、文禄2年(1593)にはイエズス会に入信しました。
ここまでは4人とも同じ道を歩みますが、その後別々の道を歩むことになります。