戦国時代、バテレン追放令の波に翻弄された「天正遣欧少年使節」の少年たちのその後:3ページ目
禁教の流れに翻弄された原マルティノと中浦ジュリアン
司祭となりマンショは小倉で活動する中、原マルティノはラテン語が堪能だったので西洋書の翻訳や出版を布教活動と二足の草鞋で行っていました。また、中浦ジュリアンは博多で活動をしていました。
しかし、慶長19年(1614)に江戸幕府が禁教令を発布し、本格的にキリスト教弾圧を始めるとマルティノはマカオへ追放されます。
マカオの地でも出版活動をし続けながら、マルティノは寛永6年(1629)に亡くなりました。
一方、ジュリアンは多くのキリスト教徒が追放されていく中で、国内に潜伏しながら布教活動をしていました。そして、潜伏して20年が経とうしていた寛永9年(1632)にジュリアンは捕まってしまいます。
ジュリアンは棄教を迫るよう何度も拷問を受けますが棄教することはなく、翌年には穴吊るしの刑に処され、命を落としました。
最後に
帰国後は4人とも時代の波に流されてしまったような印象を受けました。帰国したら本来の目的であるキリスト教の布教は禁止と言われたら、誰だって絶望とショックを受けるかと思います。
そして4人とも違った人生を歩んでいたのは意外で、全員仲良く同じ場所で活動していたわけではなかったようですね。
もう少し早く帰国できていれば、4人の運命は変わっていたのかもしれませんね。