戦国時代、バテレン追放令の波に翻弄された「天正遣欧少年使節」の少年たちのその後:2ページ目
唯一棄教の道を歩んだ千々石ミゲル
千々石ミゲルは遣欧の段階でキリスト教に対して不信感を抱いていました。それは理想郷と言われていたヨーロッパでキリスト教徒が奴隷を従えている場面を見てしまったことが発端かと思われます。
帰国後ミゲルは心が晴れないまま3人と勉学を続けますが、日に日に熱意を失っていき、次第にキリスト教と距離を置くようになります。
そして慶長6年(1601)にイエズス会を脱会。その後は従兄弟の大村喜前に「千々石清左衛門」の名で仕えます。しかし、キリスト教を棄てても元遣欧少年使節だったためか喜前と仲たがいとなりました。
また、同じく従兄弟でキリシタン大名だった有馬晴信の遺臣から裏切り者として命を狙われたことで、ミゲルは伊木力の地でひっそりと暮らしました。
司祭となるも志半ばで終わりを迎えた伊東マンショ
天正遣欧少年使節でミゲルと同じ正使だった伊東マンショは、ミゲルが脱会後も原マルティノと中浦ジュリアンと共に神学を勉強し続けます。そして慶長13年(1608)には、晴れて司祭の身となりました。
その後は細川忠興が治める豊前国小倉で活動をしています。しかし、江戸幕府が禁教の流れとなっていくと、忠興は慶長16年(1611)にマンショを追放しました。
マンショは長崎に拠点を移し活動していましたが、翌年に病死しました。