「下剋上」「戦国時代」もここから始まった!?乱世の発端になった「明応の政変」とは何か【前編】
明応の政変というクーデター
これまでは、戦国時代は応仁の乱が発端で始まったと教科書で教えられてきましたが、最近は歴史研究が進んだことで、応仁の乱よりも先に起きた享徳の乱や永享の乱など、他の地点に乱世のスタート地点を見る研究者も増えています。
他にも、応仁の乱が始まった後の明応の政変こそが乱世の始期だとする見方もあります。では、この明応の政変とは何だったのでしょうか。
応仁の乱が始まった後の1473年、九代将軍となった足利義尚は、失墜した室町幕府の権威回復に尽力します。しかし、近江守護だった六角高頼の征討のために遠征していたさなか、陣中で急逝しました。25歳という若さでした。
で、その後を継いだのが、義尚の従弟である足利義材(よしき)です。彼は足利義視の子で、のちの足利義稙(よしたね)です。
将軍就任後、義材は河内へ出兵し、畠山義豊の討伐をこ試みました。しかし、この時に従軍しなかったのが管領だった細川政元です。彼は細川勝元の息子にあたり、もともと義材が将軍になることに反対していました。
彼がそのかわりに据えようとしていたのは、堀越公方だった足利政知の子である足利義澄だったのです。
この、政元の動向が、その後のクーデーター明応の政変につながっていきます。
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