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豊臣秀頼は二人いた!? 豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【三】

豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【三】:3ページ目

高遠城で武田の猛将・仁科五郎盛信を攻略するが……

さて、長秀は織田信忠に従って攻略した信州伊那郡の大島城(現:長野県下伊那郡松川町)に在番。大島城は南信州の重要拠点で、長秀はここから南の徳川軍と連携をとりながら、東に残る武田軍に睨みを利かせます。

しかし、同じ伊那郡の高遠城(現:長野県伊那市高遠町)に3,000の兵で立てこもる武田の猛将・仁科五郎盛信(にしな ごろうもりのぶ。武田信玄の五男)が激しく抵抗、50,000の兵をもってなお攻めあぐねていた信忠への援軍として大島城から出陣。その傍らには源五の姿もありました。

「父上……この源五、毛利の子として家名に恥じぬ槍働きをご覧に入れます!」

「おぉ頼もしや頼もしや……しかし不惑(=40歳)を過ぎたとて、父もまだまだ負けてはおらぬぞ!」

「はい、一日も早く父上の背を越えられるよう、精進致しまする!」

永年にわたり手塩にかけて鍛え上げた愛しい我が子と念願の初陣。共に轡(くつわ)を並べて戦える日を夢に見ていた長秀は、感慨も一入といったところでしょう。

……しかし、これが源五にとって最初で最後の戦となりました。

「源五……っ!」

果たして高遠城は攻略できましたが、敵もさるもの、盛信主従は決死の抗戦で武田の意地を見せつけて、織田軍にも少なからぬ犠牲を払わせしめます。

源五もその一人として、若い命を戦場に散らせたのでした。主君のために身命を賭するは武士の習いながら、やはり親として悲しまずにおれません。

こうした歴戦の武功によって武田家の滅亡後、長秀は信州の国人衆・坂西(ばんざい)氏より奪取した飯田城(現:長野県飯田市)を与えられ、晴れて一城の主となったのですが……。

【続く】

参考文献

  • 谷口克広『尾張・織田一族』新人物往来社、2008年
  • 谷口克広 監修『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年
  • 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』角川選書、2016年
 

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