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豊臣秀頼は二人いた!? 豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【三】

豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【三】:2ページ目

養子・安藤源五の初陣

ところで長秀には男子がおらず、かつて信長が美濃国(現:岐阜県南部)の斎藤竜興(さいとう たつおき)を攻略した永禄十1567年、斎藤家旧臣で西美濃三人衆の一人・安藤伊賀守守就(あんどう いがのかみもりなり)が一族の中から、戦で父を亡くした遺児・源五(げんご)を養子に出してくれました。

安藤一族にしてみれば体(てい)のよい厄介払いor口減らしを兼ねて、信長のお気に入りである長秀と誼(よしみ)を通じることで織田家に取り入ろうとしたのかも知れませんが、長秀にしてみればありがたく授かった我が子です。

かつて父・毛利十郎がそうしてくれたように、愛情をもって厳しく鍛え上げ、やがて共に戦場を駆け巡るようになりました。

源五の生年は不明ですが、養子入り時点で0~5歳前後と仮定した場合、天正十1582年で15~20歳前後となるため、同年の甲州征伐(天正十1582年2月3日~3月11日)が初陣となった可能性も考えられます。

3ページ目 高遠城で武田の猛将・仁科五郎盛信を攻略するが……

 

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