美しき女武者!木曾義仲と共に戦いその最期を語り継いだ女武者・巴御前の生涯(下):4ページ目
その後、巴御前は
さて、義仲の元を去った巴がその後どうなったか、は諸説あります。
義仲の菩提を弔うために出家して尼となったとか、あるいは木曾方の残党として捕らわれ、鎌倉に連行されたところ、一目惚れしてしまった和田太郎義盛(わだの たろうよしもり。頼朝公の御家人)の側室にされて男子をもうけたとか。
この男子こそ、後に豪傑として知られる朝比奈三郎義秀(あさひなの さぶろうよしひで)。素潜りでサメ3匹と格闘して陸まで担ぎ上げたり、一晩で峠の道(現:鎌倉七口の一・朝夷奈切通)を開通させたり……。
おそらく、その怪力ぶりから「巴御前の子供じゃなかろうか」という噂が立って、それが独り歩きしたのかも知れません。
その義秀と、夫?である義盛は、鎌倉幕府の執権・北条一族との政争に敗れ、和田合戦(建暦三1213年5月2~3日)で討死します。もし義盛の側室になっていたとすれば、巴は又しても伴侶を失ったことになります。
いずれにしても和田合戦の後、越中国礪波郡福光(現:富山県礪波市)の豪族で義仲の旧臣・石黒氏に身を寄せ、主君であり伴侶でもあった義仲をはじめ、死んでいった一族や仲間たちの菩提を弔う日々を送ったということです。
愛する者の「語り部」として
巴が亡くなったのは『源平盛衰記』によると91歳、諸説ありますが寛元元1243年から建長四1253年の間となります。
建長年間と言えば、鎌倉幕府の将軍は6代目・宗尊親王(むねたかしんのう)、同じく執権は5代目・北条時頼(ほうじょう ときより)と、そんな時代。
もはや源平合戦など遠い昔の物語、義仲や頼朝公の挙兵当時を知る者とて、ほとんど生き残ってはいません。
ところで、かつて義仲は別れ際、巴にこう言いました。
「我去年の春信濃国を出しとき妻子を捨て置き、また再び見ずして、永き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。されば無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」
※『源平盛衰記』より。【意訳】去年の春、信州に残して来た妻子と二度と会えないのは無念である。私のことを想うならば、今ここで私と共に討死するより、信州に帰って妻子や人々に私の最期を語り伝えて欲しい。
かつて信州木曾の英雄として、天下にその名を轟かせた義仲の名を不滅のものとするべく、後世へ語り継ぐこと。
そう使命を帯びた巴は、命の限り人々へ語り続けたことでしょう。
かつて義仲と共に駆け巡った戦場での武勇伝や、未来の希望に胸沸かせた日々の物語と共に。