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山岳信仰や修行、狩りの為だった「登山」を国民的スポーツにした男・高頭仁兵衛【その1】

山岳信仰や修行、狩りの為だった「登山」を国民的スポーツにした男・高頭仁兵衛【その1】:2ページ目

高等小学校では、苗場山の開拓者で清津峡の名付け親としても知られる大平晟(おおだいらあきら)と出会い、師事します。13歳で弥彦山を登り、県境に連なる山岳の景観に感動して、登山の趣味を体得しました。

16歳の秋、趣味の花火製造中に誤って右手と両目を負傷、これが人生に大きく影響することになります。

1896(明治二十九)年春、実父の死去に伴い、九代目仁兵衛を継承、「義明」と名乗って、本名を式(しょく)、号を「海峰」と称しました。

1900(明治三十三)年5月には、徴兵検査も受けますが、身長不足で不合格になってしまいます。8月に富士山、苗場山に登山したことをきっかけに、仁兵衛による全国の山岳踏査が始まります。

越後一の豪農といわれた市島家から、二女のレイ子を妻として迎えるのも、この年の11月のことでした。

次回、【その2】はこちら

山岳信仰や修行、狩りの為だった「登山」を国民的スポーツにした男・高頭仁兵衛【その2】

山に登ることから登山に対する興味が増し、険阻な山とされていた八海山の登山で、母親に登山を禁止されたことから、不満を晴らすために、金と暇を、山岳研究にそそぐようになります。前回の記事[ins…

参考

  • 藤島玄「日本山岳会の先覚者」『越佐が生んだ日本的人物』第1集(1965 新潟日報社)
  • 日本山岳会『越後の旦那様 高頭仁兵衛小伝』(1970 野島出版)
  • 森谷周野「高頭仁兵衛」『新潟県人物群像』5(1986 新潟日報事業社出版部)
 

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