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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る まさに血みどろ!榊原康政の志を受け継ぎ「大坂の陣」を戦い抜いた息子・康勝の最期【どうする家康】

まさに血みどろ!榊原康政の志を受け継ぎ「大坂の陣」を戦い抜いた息子・康勝の最期【どうする家康】

大坂の陣で痔を発症、血みどろで戦い抜く

それでは武士として肝心の武勇と言えば、慶長19年(1614年)に起きた大坂冬の陣(第一次豊臣征伐)において、窮地に陥った友軍・佐竹義宣を救っています。

父の名に恥じない勇士であったと言えるでしょう。

しかし冬の寒さがこたえたのか、『難波戦記』によると痔を発症してしまったようです。

大量の出血に苦しんだ康勝。敵に傷つけられなくても、これは仕方ありません。

帰国してから養生に努めたことでしょうが、翌慶長20年(1615年)に再び大坂へ出陣せねばなりませんでした。いわゆる大坂夏の陣(第二次豊臣征伐)です。

家臣甲「遠州(遠江守。康勝)様、どうかご無理あそばされますな」

家臣乙「左様。重ねてのご無理は御命にかかわり申す」

「何を申すか。我ら譜代の者が、此度の大戦さに後れをとっては末代までの恥。同じ生命ならば、戦場で主君の御為にこそ捧げるべきであろう」

「「……御意」」

どうせ死ぬなら戦場で、主君のために……その心意気に打たれた家臣たちは、もう何も言えなかったことでしょう。

果たして出陣した康勝は5月6日、若江の戦闘で豊臣の猛将・木村重成の軍勢と激突。

続く5月7日には天王寺の最終決戦、もはや後がない豊臣勢は死に物狂い。康勝たち徳川方も、必死で戦ったでした。

そんな時です。

「遠州様!」

やはり無理がたたって、康勝の痔は悪化。大量の出血が袴をしみ抜けて、鞍壷(鞍の着座部分)が真っ赤に染まっていたのでした。

あまりの出血に、意識は朦朧としていたことでしょう。

「わしの事はよい。それより、敵を……」

「もうおりませぬ。我らが大勝利にございまする!」

「左様か……父上、ついに我らが君(家康)の天下にございますぞ……」

亡き康政を偲び、しばし感慨にふける康勝。しかし痔は回復することなく、5月27日に世を去ったのでした。享年26歳。

3ページ目 榊原康勝・基本データ

 

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